2023/10/27

『テイラー・スウィフト: THE ERAS TOUR』

『テイラー・スウィフト: THE ERAS TOUR』
at TOHOシネマズ 新宿

アメリカで記録的大ヒットとなっているテイラー・スウィフトのライブ映画。

本当は来年2月の来日公演に行きたかったのですが、一番安いステージサイド席で1万5千、1階席で3万という外タレ価格にビビっているうちにソールドアウトしました。
(全米ツアーのチケット代平均が3万くらいなので日本公演はこれでも安いんですよね。)

2000円という特別料金、週末だけの上映というのもアメリカとほぼ同じ。テイラー・スウィフト側がライブ映画の上映をいかにコントロールしているかということですね。

なるべく大きなスクリーンで、音のいいところでとTCX、DOLBY ATMOS上映回にしましたが、これが大正解でした。
ライブが撮影されたロサンゼルスのSoFiスタジアムのキャパは7万人。映像を見る限り9割の観客席からは豆粒のようなテイラー本人とスクリーンの彼女しか見えません。おそらくライブ会場よりも音、映像とも格段にいい条件で見ているはずです。
(残り1割の恵まれた席は1階ステージ前方ですがここの観客がみんなスマホを掲げて撮影をしていて、せっかくいい席にいるんだからその目で見なよと思いました。)

この上映回は「発声OK」回でもあったのでうるさいのかなとちょっと心配してたんですが、手を振ったり、拍手したり、リズムとったりできるのでむしろ楽しかった。
(この音響とスクリーンで男闘呼組の武道館ライブ上映してほしいと思いました。)

テイラー・スウィフトの歌ってプロムだなと思います。プロムクイーンみたいな曲もありますが、どちらかというとパーティーの隅であこがれの人を見つめている女の子が共感できるような歌。

私がよく聞いていたのは『Red』の頃なのでこの「era」からの曲がやっぱり一番盛り上がりました。あと『blank space』ね。

スタジアムでのライブが映えるように派手なスクリーン映像や大規模なセット、バックダンサーやコーラスも登場しますが、テイラーひとりでギターやピアノの弾き語りする曲も会場中が沸いていてアーティストとしての彼女のすごさを感じました。

2023/10/26

『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』

 『尺には尺を』『終わりよければすべてよし』
at 新国立劇場

シェイクスピア、ダークコメディ交互上演を観てきました。

別々の作品ですがどちらもセクハラ、パワハラ、不誠実な男性たちに対し、女性たちが結託して一矢を報いるという「ベッド・トリック」を用いた構成で、これを同じ役者、ふたつセットで観るとより楽しめるというのも納得。

しかし「一矢を報いる」と言っても、ひとりは純潔を守り、もうひとりは身代わりになることで夫を手に入れるという、それで本当に幸せなのかというシェイクスピア時代の女性たち。

純潔を守ろうとするイザベラ、ダイアナ役がソニンちゃん。夫を手に入れようとするマリアナ、ヘレナ役が中嶋朋子。『尺尺』でキーパーソンとなるのがイザベラで、『終わりよければ』ではヘレナというのもおもしろい。

シェイクスピアの戯曲を読んだときから楽しみにしていたアンジェロ(岡本健一)。正義と欲望の狭間で苦悩し、セクハラするオカケン、最高でした。イザベラを見る目つきがだんだん変わっていったり、「この女、何を言いだすんだ、やべえ」ってなってるときの表情とか、舞台ならではの近さで堪能しました。

アンジェロってすごく人間味のある役なので後半でただの不誠実な男になってしまうのがもったいない。どうにかならなかったのかシェイクスピア。

戯曲の段階ではいちばん納得のいかなかった『尺尺』のラスト。舞台ではアレンジされていてちゃんとダークコメディになっていて笑いました。裁く側が裁かれる側と同じ罪を犯すのはアンジェロだけじゃない。実は権力者がいちばんのクズじゃないかというオチ。

『終わりよければ』のクズ男バートラム。ヘレナはこんな男のどこがいいのかと思うんだけど浦井さんが演じることで「顔なんだな」と納得しちゃうチャラ男ぶり。

Xで見かけたポストでは学校の観劇で来ていたと思われる女子中学生が「バートラム、かっこいいと思ったけど嫌な奴だった。あの人が改心しないと『終わりよければすべてよし』じゃないよね」と話していたとか。ちゃんと観てますね〜。

また戯曲ではとくにおもしろいと思えなかった狂言回しの場面。特に『終わりよければ』のペーローレスが舞台でみるとすごくおもしろかった。

やっぱりシェイクスピアは舞台で、生きた台詞で見てこそだなあ。このチームでまたシェイクスピア公演があったらぜひ見に行きたいです。

関連Link
『尺には尺を』
『終わりよければすべてよし』


2023/10/25

『白鍵と黒鍵の間に』

『白鍵と黒鍵の間に』
at テアトル新宿

高橋和也のヘンタイ三木さんが予想以上にかわいかった。

プレミア上映会で「80年代はああいう人いたんですよね、この人、大丈夫かなっていう人が。最近はそういう人が生きられない時代なのか見なくなった」と語っていたように、バブルの余波でフラフラと生きていた三木さんのようなおじさんたちは今どうしているのかな。
お調子者なんだけどどこか寂しそうでY子のように気にかけずにはいられない。
ヘラヘラとマラカス振っているところがお気に入り。

池松壮亮くんの一人二役による南と博が交錯する一夜という構成はすごくおもしろかったんだけど、ビルの谷間のゴミ溜めシーンは抽象的すぎかな。
「過去と未来の間」「現実と幻想の間」「白鍵と黒鍵の間」なんとでも解釈できるんだけど、解釈を必要とするところが惜しい。

それに対し、存在感だけで軽々と時空を超えてしまう洞口依子母さんがさすがでした。ラストですべてもっていった『地獄の警備員』を思い出しました。

彼女が『シティロード』に書いていた映画評がすごく好きだったんだけど、Xのツイート(ポストっていうのか)があいかわらずの切れ味で嬉しくなりました。

久しぶりに映画館で映画を見たという気分にさせてくれる映画でした。

演奏シーンがあるのでなるべく音のいいところでと思い「odessa EDITION上映」のテアトル新宿で見たのですが、こういう映画を上映し続けてくれるのがテアトル新宿というのもまた嬉しかったです。

2023/10/21

『街と山のあいだ』

街と山のあいだ

『街と山のあいだ』
若菜晃子
アノニマ・スタジオ

若菜晃子さんは私的には『murren』の人という印象が強く、この本もB&Bでつねに売れている本というのと素敵な装丁で記憶していたのですがちゃんと読むのは初めて。
なんというか地に足がついた落ちついた文章のエッセイは急いで読むのはもったいなく、一日数ページくらいのテンポで読んでいたので読了に時間がかかりました。
私の親は合コンの代わりに男女で登山をするような世代なので子供時代には家族旅行といえば山登りにつきあわされていたものの、その反動なのか私個人は特に山好きでもなく、わざわざ山に登る人の気がしれないという感じなのですが、これはきっと走る人の気持ちが走らない人にはわからないのと同じようなものなのでしょう。
「一緒に山に行く相手とは話さなくてもいい」「一緒に『山に行く』という行為が、すでにもう話をしているのと同じ意味をもっている」とか「あまりに美しくなごやかな山だったので、また行きたいような気もするが、もう行かなくてもいいような気もする」とか、おそらく「山の人」たちが読んだら共感しまくるのであろう文章がつづられています。
「山行(さんこう)」とか「山座同定(さんざどうてい)」という言葉を初めて知りました。
インスタで「山座同定」と入力したら「山座同定できない人と繋がりたい」というタグがあって笑いました。
本文中にも出てくるけれど「山の人」は自慢話が好き(な人が結構いる)。「あの山は○○山であっちに見えるのが」って語られるのが苦手な人もいるんだろうなあ。
元編集者としては、登山雑誌(『山と渓谷』と思われる)のガイドを作るために地図にトレペをかけたりする作業や、山頂で日の出を見て下山した足で編集部に戻り校了を前に呆然とする気持ちなどに勝手に共感しました。

2023/10/09

『三幕の殺人』

三幕の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

『三幕の殺人』
アガサ・クリスティー
長野きよみ 訳
ハヤカワ文庫

ポアロシリーズ9作目。1935年の作品。
タイトルの通り「第一幕」「第二幕」「第三幕」と舞台のような章立てになっており、最初のページには劇場のプログラムのように
〈演出〉
チャールズ・カートライト
〈演出助手〉
サータスウェイト
ハーミオン・リットン・ゴア
〈衣装〉
アンブロジン商会
〈照明〉
エルキュール・ポアロ
と書かれている。
物語を進行するのは、元俳優チャールズ、演劇パトロンのサータスウェイト、若い娘リットン・ゴアの3人で、殺人事件の調査をしたり、聞き込みをするのもこの3人。物語の3分の2くらいまでポアロはほとんど登場せず、完全な脇役。
三人称視点の文章がややわかりづらく、チャールズとサータスウェイトもキャラ的に区別がつきにくいので、今、誰の視点で物語が語られてるのか判別しにくい。これはある意味アンフェアな構成。
54歳のチャールズと、20代前半のエッグのラブロマンスは若いころの私なら「キモっ」と思ったんでしょうけど、今は人によってはそのくらいの歳の差カップルもありえるでしょうと思えるようになりました。(男闘呼組みたいにイケオジな54歳もいるし、チャールズは元俳優のハンサムで金持ちだし、夢中になる若い女の子がいてもおかしくない設定。)
それよりもチャールズの秘書ミス・ミルレーに対する描写がひどい。
「驚くほど不美人で長身の女」とか「あの手合いの女性には、そもそも母親などいるものか。発電機からいつのまにやら発生したに決まっている」、「あれはとても顔と呼べる代物ではない」、「ぼくは自分の秘書には、とびきりの不器量を選ぶことにしている」、「ヴァイオレットとは!ミス・ミルレーにはひどく不似合いな名前だ、と、チャールズは思った。」
……あんまりじゃないですか。
第一幕のチャールズの別荘があるのがコーンウォールのルーマス地方、第二幕の現場がヨークシャー、ポアロたちが休暇に訪れているのがモンテカルロ、そしてロンドンにも家があったり、ホテル・リッツに滞在していたり、みなさんどれだけ金持ちなんだ。
貧しい上流婦人らしいレディ・メアリーにしても「ドレスデンのティー・カップ」に「色あせたチンツ」の居間ですよ。
ポアロが自分の過去について語っているのも興味深く、金持ちになって毎日が休暇なのに「楽しくない」と言っているのがなかなか意味深。
以下はモンテカルロでポアロが聞いた親子の会話ですが、私的には殺人事件よりもこの場面が衝撃的でした。
「マミー、何かすることないの?」イギリス人の子供がいった。
「いいこと」母親はたしなめるようにいった。「外国に来て、こんなに気持ちいい日向ぼっこができるなんてすてきでしょう?」
「うん、でも何もすることがないんだもん」
「駆けまわるなりして、遊んでなさい。海でも見にいったら」
「海をみてきたわ、マミー。次は何をすればいいの?」


2023/10/07

『イグアナの娘』

 『ルーズヴェルト・ゲーム』を見ているときにTVerで配信されているのをみつけて歓喜しました。1996年の放送時、リアルタイムで見ていた大好きなドラマです。

娘を愛することのできない母と母から愛されない娘。萩尾望都の原作はなかなか重いテーマなのですが、テレビドラマはだいぶファンタジーになっていて基本設定以外はほとんどドラマオリジナルのストーリー。脚本は岡田惠和。

なにより主演の菅野美穂がかわいい。美人というよりは地味な顔立ちで暗い女の子を演じてるのですが「私なんてイグアナなのよ」と彼女が涙すると「あなたがイグアナなら私はゾウガメ⁈」と思いながら見ておりました。

菅野美穂(当時だと『エコエコアザラク』)と友人役の佐藤仁美(『バウンス ko GALS』)、この2人の演技がドラマをレベルアップしています。

そのほか『渚のシンドバッド』の岡田義徳、『水の中の八月』の小嶺麗奈、家庭教師はどこかで見たことあると思ったら『シコふんじゃった。』の弟くん宝井誠明。当時の日本映画注目の新人たちですね。
(小嶺麗奈はすごく好きだったのでその後の波瀾万丈が気の毒である。)

妹役が榎本加奈子、父親が草刈正雄、母親が川島なお美となんとも美しい一家。これで自分がイグアナだったらたしかに相当辛い。

あとわざとリアルではなくかわいいぬいぐるみみたいにデフォルメしているイグアナの造形がほとんどギャグですね。
(そこ突っ込むところじゃないってわかってるけど、菅野美穂がかわいく髪を結っていたりすると、鏡を見てもイグアナなのにどうやってスタイリングするんだと思ってました。)

「イグアナ」というのは母が娘にかけた呪縛で、実際には菅野美穂の顔をしたかわいい女の子なので、彼女が恋や友情をとおしてその呪縛から解き放たれていく様を優しく見守ることができるわけですが、現実には容姿に強いコンプレックスを持っていたり、毒親による呪縛から簡単に抜け出ることができない事情を抱えている子もいるわけで、今見るとドラマの展開は甘すぎるところも多々感じます。

草刈正雄のパパはとってもかっこいいのだけど、妻と娘の両方とも愛するあまり、結局、両方とも救えていない。今だったら奥さんをカウンセリングに連れて行く案件だし、母と娘はわかりあう努力をするより距離をおいたほうがたぶんいい。

「母親が娘を愛するのは当たり前」「家族なんだからわかりあえるはず」という時代だったのでこのテーマをゴールデンタイムのテレビで描いただけでも画期的だったといえるかもしれません。

昔は「母から愛されない娘」に涙したけど、今だと「娘を愛することのできない母」の苦しみも少しわかる気がします。

第3話でリカと信子が遊びに行く高原がまだブームだったころの清里。
第5話の遊園地は今はなき横浜ドリームランド。
第10話で家族旅行に行くのが軽井沢ホテルプレストンコート。湖は軽井沢じゃなくて嬬恋のバラギ湖だそうです。