2023/03/31

『でっちあげられた悪徳大名 柳沢吉保』

でっちあげられた悪徳大名 柳沢吉保

『でっちあげられた悪徳大名 柳沢吉保』
江宮隆之
グラフ社

NHKドラマ『大奥』では倉科カナが演じて話題になった柳沢吉保。綱吉(仲里依紗)を愛するあまり……のあの人です。

甲府の春光堂書店で「柳沢吉保は悪人なのか?」というテーマで朝会を開催していたので、あれ?と思ったら柳沢家は山梨の出身なんですね。「柳沢」という地名も残っており、図書館の郷土資料コーナーにも何冊かありました。その中でいちばんわかりやすそうだったこちらを借りてみました。

「生類憐みの令」を推進した徳川綱吉のもと出世し、貨幣改鋳を行ない、賄賂を取った「悪人」とされる柳沢吉保だが、綱吉は実利主義で力のある吉保を取り立て、吉保は実直に綱吉に仕えたのであり、悪人という話は新井白石や書物によってでっちあげられたイメージであるというのが主旨。

著者の吉保贔屓が強すぎて、良い話は信じるが悪い話はすべてでっちあげという感じで、「名官僚」も「悪代官」もどっちも根拠にとぼしいなあと思いながら読みました。

『水戸黄門』にしても子供のころちらっと見ただけなので、助さん格さんは覚えていても悪代官の名前まで覚えておらず、柳沢吉保=悪人というイメージもあまりないんですよね。

武田家に仕えた武川衆から始まり、武田家滅亡ののち、家光、のちに綱吉付きとなり、綱吉が将軍になったことで出世街道を爆進。五百三十石の小姓番頭頭から一五万石の大老格へ。
甲府宰相であった家宣が将軍後嗣に決まると、甲府城を受け継ぎ、息子の吉里とともに甲府藩主に。という流れはだいたいわかりました。

吉保本人はずっと江戸に勤め、隠居後も六義園で暮らしているので、山梨に来たことはあまりなさそうですが、「甲府八珍果」(葡萄、梨、柿、桃、栗、林檎、胡桃、柘榴あるいは銀杏)を選定したのも吉保だそうです。ほんとかなあ。

『大奥』のおかげで加納久通、間部詮房、田沼意次ら側用人と将軍の関係はすっと理解できましたが、『大奥』には出てこない吉保の正妻や側室、息子はなかなかイメージできず。

『鎌倉殿の13人』のときに歴史の残っている土地っておもしろいなと思ったので、武田信玄についてもそのうち勉強してみたいなと思います。

2023/03/23

『ショッピングモールの社会史』

ショッピングモールの社会史 (フィギュール彩) 

『ショッピングモールの社会史』
 
斉藤徹
彩流社

あとがきに「一部の若手の社会学者やマニアを中心に」、「郊外の公団住宅、団地、ショッピングセンター、工業地帯の工場群など」「が再び注目されている」とありますが、ショッピングセンターが社会学者に注目されたのは、『ショッピングモールから考える』が2016年刊行なので、その頃でしょうか。
(団地や工場に注目していたのは大山顕さんのことを指しているのかと)
当時は近くにショッピングモールがなかったので他人事のように読んでましたが、角田光代『空中庭園』には「典型的郊外型ショッピング・モール」が次のように描かれています。
「ディスカバリー・センターの出現は、ダンチに住むおびただしい家族と、この町に住む多くの人間を救ったと、あたしは信じている。便利になったことはもちろんだが、もっと精神的な意味合いにおいて、だ。」
「ディスカバリー・センターは、この町のトウキョウであり、この町のディズニーランドであり、この町の飛行場であり外国であり、更生施設であり職業安定所である。」
前に『空中庭園』のこの部分を読んだときはびっくりしたんですが、今では地方におけるショッピングモールの存在の重要性、経済的、商業的な意味だけでなく、社会的な重要性をひしひしと感じるので、本書を読んでみました。
ショッピングモールはご存知のとおりアメリカで生まれた商業施設で、自動車の普及とそれにともなう住宅の郊外化によって発展します。
「フェスティバル・マーケット・プレイス」型のショッピングセンターとして有名なのが、1985年にサンディエゴのダウンタウンに開業したホートン・プラザ。
このホートン・プラザには1990年頃に行ったことがあります。カラフルな通路とあちこちにかけられたエスカレーターや階段で高低差のある各階がつながれており、今、自分が何階を歩いているのか、目的のお店になかなかたどりつけない迷路のような構成で、でもウロウロすることさえ楽しくて、特に買物をするわけでなくても毎日のように通っていました。
六本木ヒルズができたとき、アメリカのショッピングセンターのようだと思ったのですが、同じジョン・ジャーディによる建築デザインだったいうことを今回知りました。彼はほかにもキャナルシティ博多、なんばパークを手がけています。
ホートン・プラザは、まさにディズニーランド的楽しさのあるショッピングセンターだったのですが、2005年頃に再訪したときには空き店舗も多く、全体的になんだか暗い印象でした。2020年には改築のため閉鎖となっています。
日本では鉄道網を中心にステーションビル、地下街、駅前のファッションビルが登場。道路網の整備と自動車の普及により、アメリカより3、40年ほど遅れて郊外型ショッピングセンターが登場します。
アメリカにおけるショッピングセンターの歴史については詳しく書かれており非常におもしろいのですが、いちばん知りたかった2010年代以降の日本のショッピングセンターの現状についてはあまり触れられておらず。
ホートン・プラザが寂れたように、アメリカでもショッピングセンターという商業形態は変化を求められているのですが、その未来がよく見えないという感じでした。
ただ、ショッピングセンターはやはりたんなる商業施設としてのみならず、文化的価値やコミュニティを実現する場所をめざしてつくられてきたんだなと思いました。
(あと誤字が多いのが気になりました。参考文献のタイトルが間違っていたり、速水健朗さんの「ショッピングモーライゼーション」が突如として出てくるのですが、元となる本『都市と消費とディズニーの夢』についてまったく言及がないのもどうなのか。)

2023/03/13

『愛と同じくらい孤独』

愛と同じくらい孤独 (新潮文庫 サ 2-15)

『愛と同じくらい孤独』
フランソワーズ・サガン
朝吹由起子 訳
新潮文庫

サガンのさまざまなインタビューを再編したもの。まとめるにあたってインタビューの質問を本にあわせて書き換え、答えにはサガン自身が手を加えているという。

サガンは1954年、18歳のときに『悲しみよ こんにちは』でデビュー。このインタビュー集は1974年、サガン38歳頃のもの。この時点では小説9編、何本かは映画化され、戯曲も手がけている。離婚が2回、息子がひとり。

若くして作家として成功し、作家というよりは派手な生活などで有名になり、少し落ち着いた頃でしょうか。

お金や自分のイメージに対する無関心さ、恋愛については洒脱な答えを返してますが、文章に手を入れてるだけあってちょっとオシャレすぎる回答も。答えが哲学的すぎるのか、日本語訳があわないのか、わかりにくいところもありました。
作家としては軽く見られがちなサガンですが、プルーストやランボー、サルトルなんかが会話に出てくるあたり、知性を感じるというか、当時のフランス人はこれくらい読んでいて当たり前なんでしょうか。

マスコミによって派手なイメージをつくられたサガンですが、サガン本人もそのイメージに乗っているというか、「派手なイメージにうんざりしてるサガン」を演じているような感じもあります。


サガンが亡くなったのは2004年69歳のとき。晩年は経済的にも困窮し、このインタビューにも出てくるノルマンディーの別荘で過ごしたそうです。

今では『悲しみよ こんにちは』と『ブラームスはお好き』以外、ほとんど絶版。
『ある微笑』とか『熱い恋』とかおもしろいんだけどなあ。
(『ジョゼと虎と魚たち』のジョゼは『一年ののち』に登場。映画では続編の『すばらしい雲』を本屋で探すシーンがありました。)

出会って恋をして別れて以外何も起こらない、そこがサガンの小説のいいところ。
「サガンの小説の中では何も起らない」と言われたサガンの答えがよいです。

「わたしの本の中ではドラマチックな事件が少ないのですが、それは考えてみるとすべてがドラマチックだからです。ある人に出会い、恋愛し、一緒に暮し、その人が自分のすべてとなり、なのに三年のちには心を痛めて別れることになる、ドラマチックですよね。」

『外は夏』

外は夏 (となりの国のものがたり3)

『外は夏』
キム・エラン
古川綾子 訳
亜紀書房

『韓国文学の中心にあるもの』で紹介されている本を少しずつ読んでいこうと思い、今回は「セウォル号以後文学」の代表といわれるこちら。
「何かを失ってしまった人びと」をテーマに書かれた短編集なので、最初の『立冬』、『ノ・チャンソンとエヴァン』からして重い。一日に一篇くらいの感じで読みました。
そういう意味では「消滅していく言語の博物館」というSF的設定の『沈黙の未来』が一番楽に読めました。
『外は夏』というタイトルの短編が収録されているわけではないと知っていたのですが、読み終わってから季節が夏の短編も入ってたかなと。
『立冬』は文字通り立冬、『向こう側』はクリスマス、『風景の使い道』は「韓国は冬だがタイは夏だった」、『どこに行きたいのですか』はエディンバラの夏とどちらも海外。
これは「セウォル号事件」にも言えることで事件について明確に書かれている部分はありません。
著者のインタビューでは
「この短編集は何かを失った人たちがテーマ。次の季節を受け入れられない人たちを書きました。モチーフの事件は明らかにしていません。言わなくても読者にはわかるから。」
『韓国文学の中心にあるもの』では
「「外は夏」とは、セウォル号事故前と後で時間の流れが全く違ってしまったことを示唆している。セウォル号事故は春に起きた。それによって人生が変わってしまい、季節を意識する余裕もなかった人にとって、夏は「外のできごと」にすぎないという暗喩と見てもいいだろうし、それでも確実に時は過ぎ、生きている者は生きていくしかないことを示しているのかもしれない。」
と解説されています。
個人的には『ノ・チャンソンとエヴァン』の祖母とか、『覆い隠す手』の母の、生活や子供や孫の将来に対する不安にザワザワしました。(日本もだけど)韓国の生活に対する保証はとても不安定な気がします。

2023/03/05

『ティーパーティーの謎』

ティーパーティーの謎 (岩波少年文庫 51)

『ティーパーティーの謎』
E.L.カニグズバーグ
小島希里 訳
金原瑞人/小島希里 訳
岩波少年文庫

カニングズバーグの『ティーパーティーの謎』。前から気になっていたこともありますが、これを選んだのはたまたま図書館に並んでいたから。
『クローディアの秘密』もめちゃくちゃおもしろかったけど、え、なにこれ、すごいおもしろいんですけど。
クイズ大会(正確には「博学大会」)にひとつひとつ解答していくたびに回想シーンが挟み込まれ、正解とその子の経験がリンクしているという『スラムドッグ$ミリオネア』的な構成(原作の『ぼくと1ルピーの神様』が『ティーパーティーの謎』の構成を踏襲したんじゃないかと思います)。
この構成と時系列に最初はちょっと混乱しますが、慣れてくると大会を勝ち上がっていく勢いにのって後半は一気読み。
1996年の作品なので岩波少年文庫のなかでは現代的。児童文学の主人公って元気で陽キャラで友達多かったりしがちですが、無口なイーサン、イギリス英語でていねいにしゃべるジュリアン、出てくる子どもたちが知性派で内気なのも良き。差別によるいじめや両親の離婚など、それぞれ悩みを抱えているんだけど、それを乗り越えていった先にクイズの答えがあるという。ナディアとカメの話はこれだけでひとつの物語ができそう。
と、私は大絶賛だったんですが、ネットの感想をチェックしたら訳文に対して苦言を呈している人の多いこと。たしかに「あわれ」とか言葉の選び方がちょっとと思うところはあったし、意味がわかりにくい部分はあったんですが、ストーリーのおもしろさにそこまで気にしませんでした。私の日本語感性なんてそんなもの。
で、調べたら2000年に小島希里訳版が出版されたあと、2005年に金原瑞人/小島希里共訳による改版が出ているんですね。5年で改版ってすごいなと思ったら、読者が岩波に希望を伝えても改正されなかったので、直接カニングズバーグに手紙を出し、それを読んだカニングズバーグ本人が岩波に対応を求めたという経緯らしいです。すごいな。
詳しくは「カニングズバーグをめぐる冒険」に掲載されています。
私が読んだのは小島希里版だったので、改版をあらためて借りてみました。図書館ってこういうとき便利。といっても共訳なので、あきらかに誤訳とか言葉が変とかでなければ、元の訳を基本的に残すという形みたいでした。
「カニングズバーグをめぐる冒険」で指摘されているところはほぼ指摘されているとおりに修正されているような。
わかりやすいところでは「実はね」というくりかえしが、ノアの口癖だとわかるように「事実─」となっていたり、「青緑色」がターコイズであることがわかるように「トルコ石のような青緑」となっていたり。
先生は、ニコっとなんかするつもりはなかったし、ハム・ナップもこんなふうに「ごめんなさい。」と言うつもりはなかったのに。
(旧版)
先生は心からニコっとしたわけではなかったし、ハムも心から「すみません。」と言ったわけではなかった。
(改版)
個人的にあれ?と思ったのはいじめっ子ハムに対するジョークのところ。
「豚小屋と六年生の違いは何?」
ジュリアンは、「わかりません。違いはなんなのですか?」ときいた。
「豚小屋では、ハムはただのケツの肉。」
(旧版)
「ハミルトンが肉屋に入るとなんになる?」
ジュリアンは、「わかりません。何になるのですか?」ときいた。
「ハムになる。」
(改版)
旧版の「豚小屋」とか「ケツの肉」もなんですが、改版になるとジョークとしても成り立たないので。
原文とあわせて読むとまた印象が違うと思いますが、だったら『ハリー・ポッター』のほうが改訳してほしいんだよな〜。
訳とは関係ないですが、ネットの感想に、「学校の宿題で明後日まで提出しなければいけないんですが「感謝祭はいつか」と「オリンスキー先生が、博学大会のメンバーを決めるまでにどのぐらいの時間を要したか」教えてくれませんか」というコメントがあって笑いました。二つめの問題はたしかにちょっとわかりにくいのですが、そもそも自分の知恵で問題を解決していく子どもたちの物語なのに、お前なにも読んでいないだろう。
旧版のほうになぜか『不思議の国のアリス』の栞がはさまっていました。これ意図的だったらなかなか素敵。