2022/12/28

『すべての月、すべての年』

すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集

『すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集』
ルシア・ベルリン
岸本佐知子 訳
講談社

『掃除婦のための手引き書』のルシア・ベルリン短編集。
もともと43篇を収録した『A Manual for Cleaning Women』から選択されたのが先の『掃除婦のための手引き書』で、残り19篇が『すべての月、すべての年』として、日本では2冊に分けられて刊行された模様。
まあ、全部そのまま出版するには長いですからね。『掃除婦のための手引き書』のヒットを受けて残りも邦訳されたというところでしょうか。

『掃除婦のための手引き書』がそうであったように、短編集といってもそれぞれの話はどこかで重なっていたり、全部がルシア・ベルリンの人生を反映するものであったり。

ガンで余命一年と宣告された妹のサリー、自殺未遂を繰り返した母親あたりの話は『掃除婦のための手引き書』にも出てきたけれど、同じモチーフをまた別の視点で書いている。
主人公がアル中だったり、シングルマザーだったり、病院や学校で働いているのも彼女の人生からの引用だろう。

貧しかったり、人種差別をされていたり、病気を抱えていたり、孤独だったり、基本的に登場人物たちは過酷な人生を生きているのだけれど、ルシア・ベルリンのバイタリティなのか、どの話にも暗さがなく、諦めとも違う肯定感のようなものがある。これが人生であり、私はこうして生きてきたというような強さ。

もちろんすべてが実体験そのままではないだろうけれど、息子の友人と恋仲になってしまったり、旅先の漁師の家に転がり込んでしまったり、彼女ならさもやってそうだなという気がしてしまう。


2022/12/20

『北条政子』

北条政子 (文春文庫 な 2-55)

『北条政子』
永井路子
文春文庫

『鎌倉殿』ロスに供えて読み始めました。
1979年の大河ドラマ『草燃える』は、この『北条政子』(1969年刊行)と『炎環』(1964年刊行)が原作。

中学生の頃に一度読んでいるんですが、嵐の中、政子が頼朝の元へ走っていくのが冒頭と記憶していたらちょっと違いました。

そのほか、実朝が造らせた船が海辺で朽ちてゆき、泣き声が聞こえると人々が怯えるんですが、実は公暁と駒若がイチャつく声だったという場面が印象に残っています。
(竹宮惠子が少年愛というジャンルは確立していましたが、BLシーンはまだめずらしく、中学生だったので衝撃的でした。)

あとはほとんど覚えておらず、行き遅れの政子が「体をもてあます」とか、頼朝との逢瀬とか、あー、そうかこのへんが苦手で、その後、時代小説へと向かわなかったんだと思い出しました。
(時代小説ってなぜお色気場面がお約束なの?)

全体的に政子は気が強いけれど、悪女ではなく、時代の中で政治に巻き込まれてしまった孤独な女性として描かれています。
比企討伐が息子頼家を若狭局に取られた政子の嫉妬を契機としているように、女を強調しすぎてる感はありますが、書かれた時代的にはしょうがないのかも。

宗時兄にブラコン気味だったり、四郎義時は無口で愛想がないと書かれていたり、『鎌倉殿』とのキャラクターの違いとか、事件をどう描くのか比較しながら読むのがおもしろかったです。
実朝暗殺の黒幕が三浦義村となっているのは当時としてはわりと斬新な解釈だったのではないでしょうか。

承久の乱の政子の演説ではなく、実朝暗殺までで終わっているので、政子の孤独が際立つラストだなと思います。

※追記
2023年1月27日、永井路子さんお亡くなりになったと報道がありました。
『北条政子』が『草燃える』がなかったら『鎌倉殿の13人』はおそらくなかった。
あらためてすごい作家だったのだなと思います。

2022/12/08

『実朝の歌 金槐和歌集訳注』

実朝の歌―金槐和歌集訳注

『実朝の歌 金槐和歌集訳注』
今関敏子
青簡舎

『鎌倉殿の13人』第39話は同性愛を描いたことが話題になりましたが、私的には恋心や失恋を伝えることのできる和歌の表現力、実朝の和歌のすばらしさをわかりやすく描いたことがうまいなと思いました。
実朝の歌でおそらく一番有名なのは百人一首に選ばれている
世の中は常にもがもな渚漕ぐ
海人の小舟の綱手かなしも
だと思いますが、あらためて聞いてみると、日常のなにげない風景を見て、こんな穏やかな日々が続いてほしいと願う、素朴でいい歌だなと思います。(鎌倉殿である実朝が庶民の日常を見ているところも良いですね)
『金槐和歌集』に収録されているのは663首。この本では現代語訳と参考となる他の和歌が紹介されていて、これもおもしろいんですが、全部ちゃんと読んでいると時間がかかってなかなか進まないのと、元の和歌だけをそのまま読んだほうが素直に理解できる感じがしたので後半は和歌部分のみを読み進めました。
和歌の歴史はほとんどわかりませんが、実朝の和歌はおそらく万葉集とかに近い、素朴で力強いものが多い気がします。
四季を歌ったもののなかには、本歌取りというか、ほとんどパクりじゃないのみたいに後鳥羽院の影響を受けているものとか、(和歌ってそういうものらしいけれど)行ったことのない京とか吉野の地名が出てくる雅な感じのものもありますが、圧倒的に後半の「雑」に分類されている歌のほうが良い。
『鎌倉殿』では失恋の歌として使われていましたが
大海の磯もとどろに寄する波
破れて砕けて裂けて散るかも
とか、後半のリズムが波音のような激しさがあって力強いですよね。
800年前に書かれた歌が今も通じるって日本語ってすごい。ここらへんの時代の和歌をもう少し読んでみたい気持ちになりました。

2022/11/18

『ポリアンナの青春』

ポリアンナの青春 (岩波少年文庫)

『ポリアンナの青春』
エリナー・ポーター
訳 谷口由美子
岩波少年文庫

『少女ポリアンナ』の続編。原題は『POLLYANNA GROWS UP』。
前半はポリアンナ in ボストン。コモンウェルス街とかボストン公立公園の描写が素敵でボストンはいつか行ってみたい。
「あたしは、公園にいられて、それ以外にすることがなかったら、どんなにいいかと思うわ。」
後半は6年後、ポリアンナ20歳。
みんながみんな自分の好きな人は別の人が好きと勘違いしているあたり、ほとんどラブコメディ。エリナー・ポーターは恋愛小説も書いていたそうなのですが、いろいろ無理やりハッピーエンド。
貧富の差や若い女性の労働問題などが出てくるのは当時の社会情勢によるものでしょうか。
後半も含めて『喜ぶゲーム』の限界というか、ゲームでは解決できない問題も提示されています。
ポリーおばさんの言う「もっと悪いことがあるかもしれない(それよりは私は幸せ)、という考え方は気に入らない」と言うのも真理。というか、ポリーおばさんも幸せにしてあげて。
「美人じゃないって?」
「あるわけないわ。鏡を見ればわかるじゃないの。」
「ねえ、ポリアンナ、きみは自分がしゃべっているときの顔を、鏡で見たことがあるかい?」

2022/11/16

『少年が来る』

少年が来る (新しい韓国の文学)

『少年が来る』
ハン・ガン
井手俊作 訳
クオン

梨泰院の事件のあと、そういえばまだこれを読んでいなかったと手にとってみました。
1980年に起きた光州事件をテーマにした小説、なのだがノンフィクション以上に生々しい。死者となった少年、生き残った少女、章ごとに変わる人物たちとともに、事件とその後を追体験しているような感じ。
韓国文学の翻訳者として知られる斎藤真理子さんが『少年が来る』の読書体験を水泳に例えていたけれど、深いところに潜っていくような息苦しさがあります。
ハン・ガンの文章は残虐な場面でも静かで、ときに美しくもあるのだけれど、引き込まれると同時に、またあそこまで潜って行かなければいけないのかと思うと一日一章ずつしか読み進むことができませんでした。読んだあとも水面に顔を出して呼吸ができるようになるまでに時間がかかる。
辛いけれどここまでの読書体験を与えてくれる文学はなかなかないので、これを味わうためだけにでも読む価値のある一冊。
光州事件については名前こそ聞いたことがあったものの、詳細についてはまったく知らず。知らなかったことにもショックを受けました。
40年前はたしかに過去ですが、1980年といえば、日本では松田聖子がデビューした年で、決して昔というほど昔ではない。天安門並みの事件が隣の国で起こっていたのにそれをまったく知らなかったこと、韓国国内でも1987年まで事件について語ることができなかったこと、それからまだ40年しか経っていないということ。
現在は日本よりもファッショナブルで、キラキラなイメージさえある韓国ですが、日本の戦後50年間くらいを韓国は10年ほどで一気に変化したようなところがあり、そのアンバランスさや歪みみたいなものを時々感じます。
梨泰院のような事件は日本でも起こる可能性があるのですが、どこかその歪みから生じているような気がしてしまうのです。
前田エマさんの書評でBTSの『Ma City』に光州事件について歌っている部分があると知りました。韓国の若者たちは光州事件を背負って生きているのだなと。

https://note.com/cuon_cuon/n/n3d5e6e37e5b6

2022/11/10

『マンガ日本の古典 吾妻鏡』

吾妻鏡(上)―マンガ日本の古典〈14〉 (中公文庫) 吾妻鏡(中)―マンガ日本の古典〈15〉 (中公文庫) 吾妻鏡(下)―マンガ日本の古典〈16〉 (中公文庫)
『マンガ日本の古典 吾妻鏡』 上・中・下
竹宮惠子
中公文庫

佳境に入ってきた『鎌倉殿の13人』。
三谷幸喜が「実質、これが原作」と言ったという竹宮惠子版『吾妻鏡』を読んでみました。
『吾妻鏡』はもともと歴史書。軍記物の『平家物語』のようにわかりやすいストーリーがあるわけではないので、そのまま読んでもあまりおもしろくないのですが、そこは竹宮惠子さん、うまくまとめています。
『鎌倉殿』では実衣をときめかす琵琶の先生として出てくる結城朝光が、若いころから頼朝に仕えていたことがわかるので、頼朝亡きあとの「忠臣二君に仕えず」も重みが違ってきます。
佐々木や千葉の一族も挙兵のころから出てくるので頼家時代の不満とか理解しやすい。
上巻の表紙が頼朝、中巻が義経、下巻が実朝。
下巻の最初のほうで頼朝が亡くなるので、『鎌倉殿』を見てると下巻はだいぶ話が圧縮されている感があります。
『鎌倉殿』の畠山殿が「見栄えがいい」のは竹宮惠子版の影響でしょう。畠山重忠、17歳で頼朝の前に現れてから、武芸に秀でて公明正大、終始かっこいいです。
そのほか、実朝と和田朝盛(和田義盛の孫)の仲が『鎌倉殿』では泰時への片想いに変換されてます。
公暁と駒若のBL設定にはちょっと驚いたのですが、たしか永井路子の『北条政子』でもふたりの衆道が書かれていたはず。
定番の設定なの?と調べてみましたが、他には永井路子の『炎環』と『北条政子』を原作にした『草燃える』くらい。
『北条政子』が1969年で、竹宮惠子版『吾妻鏡』が1996年なので、永井路子の設定を竹宮惠子が踏襲したということでしょうか。
しかし、『マンガ日本の古典』シリーズ。カバーの一覧を見ると、さいとう・たかを『太平記』、牧美也子『好色五人女』、安彦良和『三河物語』とか豪華なラインナップですね!


2022/11/09

『戦争は女の顔をしていない』

戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫)

『戦争は女の顔をしていない』
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ
三浦みどり 訳
岩波現代文庫

2019年にコミック版が出たことと、ウクライナ戦争によって話題になりました。
原作は1985年に出版されたノンフィクション。第二次世界大戦中に従軍したソ連の女性たちの記録。
インタビューをしたのが1978年からとなっているので、戦後30年が経っている。さらにペレストロイカを経て、出版当時削除した部分などが2004年版で追加されている。
戦後長い時間が経っていることや、「話すのが怖い」こともあり、女性たちはすべてを正直に語っているわけではない。出征前に見た花とか、戦後に買ったワンピースなど、一見戦地とは無関係の話も多い。そういった話の上澄みから底にあるものの語られなかった存在が感じられる。
著者が「一つとして同じ話がない。どの人にもその人の声があり、それが合唱となる。」というように、いくつもの話から戦争をとおして生きること、死ぬこと、その人の人生が見えてくるような感じ。
「私がどういうふうに銃を撃ったかは話せるわ。でも、どんなふうに泣いたかってことは、だめね。それは言葉にはならないわ。」
「自分で話し始めても、やはり、事実ほど恐ろしくないし、あれほど美しくない。」
第二次世界大戦のソ連について、私は本当に無知で、作中のフランス人が言うように「多くの人がヒットラーに勝ったのはアメリカだと、そう思っています。」に近い。
16歳の女の子たちが自ら進んで出征したこと、故郷に残った人たちの多くが餓死で死んでいったこと、解放されたドイツ領地でソ連軍がしたこと、帰ってきた女性たちが白い目で見られ結婚もままならなったこと、捕虜になった人たちが戦後収容所に送られたこと。
訳者あとがきに『チェチェン やめられない戦争』の原本を著者が送ってくれたことが書かれていますが、『チェチェン やめられない戦争』の著者アンナ・ポリトコフスカヤは2006年に暗殺されています。
訳者の三浦みどりさんは2012年に病死。
2015年にアレクシエーヴィチがノーベル文学賞を受賞したことで、群像社から出ていた単行本が2016年に岩波現代文庫として刊行。
文庫版の澤地久枝さんの解説に中村哲医師の名前が出てきますが、2019年にアフガニスタンで銃撃により死去しています。
著者のアレクシエーヴィチはウクライナ生まれ、ベラルーシ出身。長い間、ベラルーシでは彼女の本は出版禁止となっていたそうです。
こういった経緯だけみても戦争はまだ続いている気がします。
原題は『WAR’S UNWOMANLY FACE』。どなたがつけたのかわかりませんが、邦題『戦争は女の顔をしていない』がすばらしいです。

2022/11/06

『少女ポリアンナ』

少女ポリアンナ (岩波少年文庫)

『少女ポリアンナ』
エリナー・ポーター
谷口由美子 訳
岩波少年文庫

小学生ころに外国の少女小説を片っ端から読んでいた時期があったんですが、なぜか『少女ポリアンナ』は読んでいませんでした(私の世代だと村岡花子訳『少女パレアナ』のタイトルのほうが馴染みがあります)。
某本屋にて児童文学棚の前で小学生くらいの女の子とお父さんが
父「『若草物語』や『赤毛のアン』とか読んだことがないんだけれど、これはどういう話なの」
女の子「『ポリアンナ』は「よかった探し」をするの」
父「よかった探し?」
女の子「もらったプレゼントが欲しかったものと違うとするでしょ。でも良かったと思えるところをみつけるの」
と話をしていて、この子、ちゃんと読んでいて、伝えられるのすごいなぁと感心して、話もおもしろそうだなと手にとってみました。
「よかった探し」、岩波少年文庫版ではたんに「ゲーム」となっていますが、訳によって「幸せゲーム」、「うれしい遊び」などいろいろ。原文だと「Glad Game」。
どんなことにも嬉しいことをみつけるポリアンナのゲームで、「この部屋には鏡がないけど、そばかすを見なくてすむから嬉しい」といった小さなものから、寝たきりの病人にも喜びをみつけるものまで。
ネットで検索すると「ポリアンナ症候群」、「ポリアンナ効果」という言葉が紹介されていて、「ポリアンナ うざい」という検索結果も出てきたりして、彼女のポジティブさは賛否両論なのだとわかります。
「よかった探し」の強度が試される後半が肝なんですが、ここはなんとなくハッピーエンドに落ち着いてしまって物足りない。
『少女ポリアンナ』が1913年、『赤毛のアン』が1908年。孤児が中年女性に引き取られて、明るさで周囲を変えていく、過去の恋愛が絡むといった設定がそっくりですが、パクったというより少女小説あるあるな設定だったのかもしれません。
最近の転生ものでは異世界やゲームの世界に転生しますが(現世でプレイしている乙女ゲーの世界に転生するってどういう世界線?)、私だったら1900年代のイギリスもしくはアメリカもしくはプリンスエドワード島の少女小説の世界に転生したい。
ギンガムチェックの服を着ておさげ髪でトランクを下げて駅に立ち、窓からすてきな景色が見える屋根裏部屋に住みたいと思います。

2022/11/05

『建築家 坂倉準三』

建築家 坂倉準三 モダニズムを生きる|人間、都市、空間

『建築家 坂倉準三 モダニズムを生きる|人間、都市、空間』
神奈川県立近代美術館
建築資料研究社

2009年に神奈川県立近代美術館で行なわれた『建築家 坂倉準三展』の図録をベースに、ル・コルビュジエの弟子時代、パリ万国博覧会日本館をはじめ、市庁舎、美術館、難波、渋谷、新宿のターミナル開発など、坂倉の設計をふりかえる。
小田急百貨店新宿店の(実質的)閉館にともなって、設計者・坂倉準三について調べていたのですが、小田急百貨店のみならず、新宿駅西口地下、東急文化会館などを含む渋谷ターミナル開発も彼の仕事だとわかり、私の都市風景はこの人によって作られたのかと驚愕しました。
解説によると、戦後、財政状態の逼迫している国鉄は民間資本を誘導し「民衆駅」の建設を計画。渋谷駅をつくったのは東急電鉄会長・五島慶太であり、坂倉は「五島王国」を設計した。
1970年代以降の再開発では「ディベロッパーが事業採算性を考慮して容積を決め、キーテナントを誘致し、ゼネコンがビルを建設する」。
坂倉準三は建築家が都市をデザインすることができた時代のただひとりなのではないか。
東急文化会館も今はなく、すっかり迷路と化してしまった現在の渋谷を思うと、都市計画って大切だなあと。
現在公開されている新宿西口の再開発も超高層ビルを建てることにどれだけの意味があるのか。
掲載されている写真を見ると新宿駅西口も増改築によりだいぶ変わっています。駐車場入口のところは昔は噴水だったことを思い出しました。そして床のタイルは水面のような同心円だったんですよね。今でも一部残っています。
『坂倉準三展』が開催された神奈川県立近代美術館は坂倉準三の代表作でもあるのですが、現在、鎌倉文華館鶴岡ミュージアムとなり、なんと「鎌倉殿の13人 大河ドラマ館」として使われています。これは、見に行かなくてわ。


2022/10/26

『くじ』

くじ (ハヤカワ・ミステリ文庫)

くじ
シャーリイ・ジャクスン
深町眞理子 訳
ハヤカワ・ミステリ文庫

『ずっとお城で暮らしてる』のシャーリイ・ジャクスンの短編集。
『ずっとお城で』は、メリキャットの無邪気さ、お姉さんの潔癖さなどが次第に不穏な雰囲気を生み出してゆくのだけれど、一番怖かったのは村人たちの理由がよくわからない悪意。
『くじ』の短編はあちこちに人間の悪意が、時にあからさまに、時に目に見えない形で(このほうが怖い)ただよっていて終始ザワザワとした気分になります。
表題作『くじ』が発表されたのが1948年とのことですが、対象を決めたらいっせいになぶり殺しにかかるあたり、今見るとSNSいじめのような残酷さ。この頃からずっと人間は変わらないということでしょうか。
原題が『THE LOTTERY OR, THE ADVENTURES OF JAMES HARRIS』とあるように22篇の短編のあちこちにジェームズ・ハリスという謎の男性が登場します。
訳者の深町さんは彼を「悪魔の化身」としていますが、人は誰しもジェームズ・ハリスであり、彼がつけいる心の隙をもっているような気もします。

2022/10/06

『邪悪の家』

邪悪の家(ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

『邪悪の家』
アガサ・クリスティー
真崎義博 訳
ハヤカワ文庫

秋はミステリー!な気がするのでポアロシリーズ6番目。
『邪悪の家』は前に旧訳版を読んでいますが、犯人覚えてないので問題なし。
アガサ・クリスティーの小説にありがちですが、ラストになって犯人はAさん!と思ったら黒幕はBさん!じゃなくて実はCさんでした!みたいな怒涛の展開をするので、もう犯人誰でもいいやみたいな感じなんですよね。
今回も犯人より、表面的には仲のいい女友達が内心、相手をよく思っていなかったり、恋人ができたことを妬んでいたりする感じがリアルに怖かったです。
セント・ルーのマジェスティック・ホテルが実在するのかどうか知りませんが、海辺のリゾート地で休日を過ごしたり、ホテルにランチやお茶をしにくるという生活がよいです。

2022/09/28

『観光』

観光 (ハヤカワepi文庫)

『観光』
ラッタウット・ラープチャルーンサップ
古屋美登里 訳
ハヤカワepi文庫

著者の名前が何度見ても覚えられない&発音できない、タイ文学。
タイ文学といっても著者はアメリカの大学で創作を学び、英語で執筆しているタイ系アメリカ人。
観光客に対する軽蔑と憧れ(飼っているブタの名前がクリント・イーストウッド!)、クジ引きで徴兵が決まる抽選会(でも金持ちは付け届けをすれば逃れられる)、難民との確執など、タイ出身だからこそ書ける視点もありますが、貧しさとともに生きていく強さなど、ルシア・ベルリンやヘミングウェイのような雰囲気も感じます。
注目のアジア系若手作家なのだが、訳者あとがきによると、2010年の時点で著者とは連絡がとれず、執筆をつづけているのかも不明だそうだ。
(あとがきに出てくる紀伊國屋で開催された「ワールド文学カップ」覚えてる!)

よくみるとブタちゃん(こいつがイーストウッド)が泳いでいる表紙。


2022/08/24

『ハローサマー、グッドバイ』

ハローサマー、グッドバイ (河出文庫)

『ハローサマー、グッドバイ』
マイクル・コーニイ
山岸真 訳
河出文庫

夏に読みたいSFということで選びました。

夏の休暇に訪れた港町。政府高官の息子と宿屋の娘の恋、近づいてくる粘流(グルーム)、戦争、政府と町民たちの対立などなど。

冒頭には「これは恋愛小説であり、戦争小説であり、SF小説であり、さらにもっとほかの多くのものでもある。」とあるように盛り沢山なのですが、正直、恋愛小説としてもSF小説としてもなんとなく微妙な読後感。

まあ最大の難点はヒロインであるブラウンアイズがかわいいだけでまったく魅力的でないところ。少し内気で無垢な少女が主人公に対してだけは積極的って、昔のエロゲーのヒロインかと。他の女の子にあからさまにヤキモチやくとかもうざいわ〜。

SF部分はなかなかおもしろいんですが、世界設定がわかりづらく、前半は夏の田舎の港町みたいな雰囲気で読みました。

後半がちょっとアンナ・カヴァンの『氷』に似ているなと思ったんですが、どちらも元サンリオSF文庫からの復刊。『氷』の原書が1967年、『ハローサマー、グッドバイ』が1975年。冷戦時代なので世界の終わりがストーリーになるのかなと。

恋と政治、戦争などを経て、ひと夏のうちに成長していく主人公というのはおもしろいので、ここがもうちょっと欲しかったところです。

「この夏のあと、ぼくたちはだれひとり、前と同じじゃなくなっているだろう……それがこわいって思うこともある。すごくたくさんのものを、すごい早さで失ってるような感じがして。」

2022/08/21

『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』

わたしが先生の「ロリータ」だったころ 愛に見せかけた支配について

『わたしが先生の「ロリータ」だったころ
愛に見せかけた支配について』
アリソン・ウッド
左右社

『テヘランでロリータを読む』は1980〜90年代、イラン・イスラーム政権下で女子大生たちが『ロリータ』を読みますが、こちらは2000年代、英文学の教師が女子高生に『ロリータ』を渡します。
「この本は、欲望であり、憧れであり、逃れがたい危険だ。」
26歳の教師と17歳の生徒の関係は年齢差だけでいえば、37歳のハンバートと12歳のロリータよりはるかにまともそうに見えますが、そこにあるのが「愛」ではなく「支配」だというのが問題。
この本に限らず、相手に『ロリータ』を読ませることで年齢差のある恋愛を正当化する男性の話をどこかで目にしたことがあり、それはやはり相当に気持ち悪い。
アリソンが易々と教師に飲み込まれていってしまう前半はイライラしてしまうんですが、客観的に見れば単なるエロオヤジみたいな教師も、不安定で助けを求めていた少女にとっては王子様なんですよね。
「愛ではなく支配だった」という関係性は、年齢差のあるなしに限らず、対象が少女でなくても起こりうるんじゃないかと思います。
ハンバートは「信頼できない語り手」であり、『ロリータ』は「愛の物語ではなく、レイプと妄執の物語である」と気がついた終盤の『ロリータ』論が秀逸です。
『ロリータ』に隠されたハンバートの真実、それを利用した(あるいはそもそも自分の都合のいいようにしか読解していなかった)教師の罠、『ロリータ』を再読することで過去の自分から解き放たれていくアリソン。
『ロリータ』という作品が読む側によってこんなにもいろんな面を見せることに驚きます。
「たしかに『ロリータ』は美しい。でも、同時におぞましくもある。そのふたつは両立しうる。」

2022/07/31

『テヘランでロリータを読む』

テヘランでロリータを読む (河出文庫)

『テヘランでロリータを読む』
アーザル・ナフィーシー
市川恵里 訳
河出文庫

文庫で600ページ近くあるので、図書館から借りた単行本を半分読んだところで返却期限が1週間過ぎてしまい、結局、文庫版を買って続きを読みました。
約1ヵ月かかって読みましたが、今のところ今年のベストワン。人はなぜフィクションを読むのか。優れた文学は時代も場所も超えて力になるのだと、これほど強く訴える作品もめずらしい。
私も大学でフィツジェラルドを読みましたが、イラン・イスラーム政権下では、『グレート・ギャッツビー』は不道徳だと避難され、著者と学生たちは「ギャッツビー裁判」を行います。
(この裁判の展開自体が優れた『ギャッツビー』論になっているのがおもしろい。)
私が新宿のカフェで読んだ『デイジー・ミラー』を著者は、イラン・イラク戦争の爆撃音を聞きながら、蝋燭の灯りの中で読んでいます。
女子学生のひとりナスリーンが同い年だと後半になって気がつきました。
時代や場所を超えて、私たちが同じ物語に共感できるということに感動すると同時に、ロリータに同情し、デイジーに憧れる彼女たちの状況の切実さに胸をつかれます。文学がどれほど彼女たちの希望になっているのかと思うと涙が出ました。
「ギャッツビー裁判」をはじめ、全体が文学論でもあるので、『ロリータ』、『グレート・ギャッツビー』、『デイジー・ミラー』、『高慢と偏見』あたりは読んでおいたほうが、彼女たちとともに作品を楽しめると思います。(それに誰が死ぬとか、殺されるとかガンガンネタバレされてるし。)彼女たちの視点を通して、それぞれの作品をまったく新しい見方ができるのもおもしろかったです。

2022/07/15

『デイジー・ミラー』

デイジー・ミラー (新潮文庫)

『デイジー・ミラー』
ヘンリー・ジェイムズ
訳 小川高義
新潮文庫

『テヘランでロリータを読む』に出てきたので、そういえばヘンリー・ジェイムズ読んだことがないと思って並行して読みました。
といっても130ページほどの小品なので2、3日で読み終わる。
『テヘランでロリータを読む』によると、「後期のヘンリー・ジェイムズ作品よりは難解ではない」らしいのだけれど、シンプルなストーリーゆえにこれをどう受け取っていいのかわかりませんでした。
美しきデイジー・ミラーは天真爛漫で純粋な娘なのか、それとも下品で愚かな女なのか。彼女はウィンターボーンを愛していたのか、そしてウィンターボーンは?
デイジーを糾弾するのはヨーロッパの社交界。夜遅くに男と遊びまわっているとか、その男がハンサムな弁護士ではあるものの上流階級の紳士ではないというのが主な理由。紳士階級であるウィンターボーンと出歩くのはOKなの?
『デイジー・ミラー』が発表されたのが1878年なので、当時の道徳観だと、デイジーの行動は許されないんだろうなと思いつつ、それを上から目線でジャッジするウィンターボーンの不甲斐なさはどうなんでしょう。彼は自分ならデイジーを救えたと思っているのか。
アメリカ娘であるデイジーもウィンターボーンも、スイスやローマのホテルに滞在して観光やら社交に出歩くだけという上流階級的な過ごし方もうらやましいというよりちょっと不思議。

2022/07/09

『なかなか暮れない夏の夕暮れ』

なかなか暮れない夏の夕暮れ (ハルキ文庫)

『なかなか暮れない夏の夕暮れ』
江國香織
ハルキ文庫

毎年、日が長くなってきた夏の初めにタイトルを思い出し、この時期に読もうと思いながら、タイミングを逃していましたが、今年は間に合いました。
50歳の稔をはじめ、小学生の娘や二十代のシングルマザーも出てくるけれど、中心となるのはみないい歳をした男たち女たち。不惑もとっくに過ぎているのにふらふらと大人になれない、あるいはそれが大人なのか、タイトルの「なかなか暮れない」は人生も後半の彼らをさしているものでもあるようです。
「江國香織の登場人物は働いてない感じがよい」と誰かがどこかで書いていたのですが、この小説の稔も、資産家で特定の仕事をしておらず、家でのんびり本を読んでいる。うらやましい生活だ。
稔が読んでいる北欧ミステリーだの、カリブが舞台の小説だのが文章中に挟まれているのですが(こういうのなんていうの?「劇中劇」じゃなくて「作中作」?)、これが見事なまでに陳腐な文章とストーリー展開。もちろん江國香織はわざとやっている。読んでいるのがトルストイとかじゃないのもまた良し。

小説の人物を真似して赤ワインを飲みながら本を読む稔くん。赤ワインとはいきませんが、適当に何かつまみながらダラダラと読み進めるテンポがこの小説にはちょうどいい。
あまつさえ時間と金のありあまっている稔は小説に出てくる料理を再現するために日本では珍しいバナナを取り寄せてみたりする。
稔が子供のころ「寺村輝夫を読んだときにも、毎日オムレツばっかり作ってた」というセリフが出てくるのだが、寺村輝夫で調べたら『こまったさん』シリーズとかもあるけれど『おしゃべりなたまごやき』の人でした。
娘の波十ちゃんが読んでいるのがアリソン・アトリーの『西風のくれた鍵』なのもよい。
中年の恋愛ものは苦手なので、登場人物たちがとくに恋に落ちるわけでもなく、なんとなく関わりあってる感じとか、事件が起きるわけでもなく過ぎてゆく日々がまさに『なかなか暮れない夏の夕暮れ』らしくて心地良い読後感でした。

2022/06/21

『おちゃめなふたご』

おちゃめなふたご (ポプラポケット文庫 412-1)

『おちゃめなふたご』
エニド・ブライトン
訳 佐伯紀美子
ポプラポケット文庫

パブリック・スクールブーム続行中。
本当は『トム・ブラウンの学校生活』が読みたかったのですが、絶版で図書館にもなかったので、エニド・ブライトンものを。
全寮制女子校クレア学院に通う双子の物語。
原書の出版が1941年。日本語訳が1982年。
1991年にアニメ化されているそうですが、まったく知らずにいました。
『おちゃめなふたご』というタイトル、田村セツコによるイラストがもうおちゃめ。1982年当時だと、少女マンガっぽい表紙だと思うけど、今見るとレトロかわいい。
ふたごちゃんがなかなか性格悪くて、先生に反抗したり、上級生に楯突いたりしながら、だんだん学校に馴染んでいくのがおもしろいです。
先生へのいじめとか、盗難事件とか、なんでも正義感や友情で乗り越えちゃうのはユルいな〜と思いますが、そこがこの物語の良いところでもあるかも。子供のころに読みたかった!
おこづかいが少なくてケチだと思われたくなくて盗みを働く少女とか、貧しい生まれだったけどお金持ちになり、出自を知られたくなくてお嬢様のふりをする女の子とか、階級社会も垣間見えます。
下級生が上級生の言うことを聞く「ファギング」制度も出てきて、ふたごが最初はこれに反発しつつも受け入れていくあたり、当時はそれなりに意味があると考えられていたんでしょうね。(現在では廃止されている。)
岩波新書『パブリック・スクール』の著者、新井潤美さんは「イーニッド・ブライトン」ものに憧れてイギリスの女子校に入学。同級生たちも同じようにイーニッド・ブライトンものを読んでおり、「小説とはだいぶ違う」と言いながらも学園生活を楽しんだと書いてました。
真夜中のパーティはやりたいよね。
「そうだ、真夜中のパーティをしましょうよ。どうしてだか夜中にこっそり食べると、なんでも特別においしいのよ。」

2022/06/12

『アナザー・カントリー』



パブリック・スクールシリーズ総仕上げ的に。
有名な映画ですが見るのは初めて。
1983年公開で、舞台になっているのは1930年代のイートン校。イートンは撮影不可だったらしく(内容的にそうだろうね)、メインのロケ地はオックスフォード。

字幕の訳がわかりにくいけど、「幹事」がいわゆる「監督生 prefect」。その上に自治会の「代表」、通称「God」のメンバーがいる。
代表だけがカラーベストを着用できて、代表になりたいベネットがベストを用意していたりするのがなんとも。

コリン・ファースのスクリーンデビュー作だそうで若い! 個人的には『ブリジット・ジョーンズの日記』あたりのほうがかっこいいと思う。
主演のルパート・エヴェレットはこの後、ゲイであることをカミングアウトした影響でしばらく仕事がなかったとか。
(『ベスト・フレンズ・ウェディング』でジュリア・ロバーツの友人を好演して復活。この映画見て、ゲイの友達欲しいと思った女子は多いはず。彼が『I Say a Little Prayer』歌うシーンとラストのダンスシーンは名場面。)

私は腐女子成分少なめなので「耽美〜」というよりは学内の権力争いとか、パブリック・スクールの負の部分を描いているところがおもしろかったです。『美しき英国パブリック・スクール』でも「軍隊みたいで学校が好きじゃなかった」という卒業生の言葉が紹介されてましたが、全寮制男子校って美しいよりも厳しいことや辛いことも多いはず。

2022/06/11

『美しき英国パブリック・スクール』

美しき英国パブリック・スクール

『美しき英国パブリック・スクール』
石井理恵子
太田出版

英国パブリック・スクールへようこそ!

『英国パブリック・スクールへようこそ!』
石井理恵子
新紀元社

岩波新書『パブリック・スクール』では歴史的なこと、文化的影響はわかったものの、実際のパブリック・スクールはどうなのというところがよくわからなかったので、こちらを併読。
どちらもミーハー全開の表紙で違いがわかりにくいですが、『美しき』のほうは写真と取材、インタビューなどでパブリック・スクール6校を紹介したもの。学校提供のものが多いですが、写真が豊富で図書館、聖堂、回廊などクラシックな建物が楽しめます。
『ようこそ!』のほうは授業内容、規則、制服、イベントなど、もう少し突っ込んだまとめになっています。
そもそもイギリスの学校制度が日本と全然違っていて、公立と私立では入学のタイミングも違う。
パブリック・スクールに入学するためには、まず10歳くらいでプレップ・スクールに入学。その後、試験を受けて13歳で入学というのがおもなプロセス。学校によってはラテン語やフランス語の勉強も必要。
入学金約3000ポンド、一学期の学費が12000ポンド。一年目の学費だけで軽く500万円を超える。奨学生であれば学費が一部免除されるが、全額免除されるのは非常に優秀な生徒のみ。
結果的にパブリック・スクールに通うことのできるのは金銭的に余裕のある子弟、もしくは非常に優秀な子になるわけです。
イギリスの公立校は学校によって差があり、いい学校に通うために引越しをするとか、富裕層に囲まれる世間知らずにはなってほしくないという理由からあえてパブリック・スクールではなく公立を選択する話などがでていました。
『アナザー・カントリー』でパブリック・スクールに興味をもったという著者らしく、「校内で同性のカップルはいますか」なんて質問をしているのが笑えます(まあ、でもそこ聞きたい層はいるよね)。
学校取材自体が難しくなっているということもあり、卒業生や在校生の親などから聞いた話が多いようで「〜もあるそうです」「〜のようです」みたいな伝聞調語尾の文章が気になるところですが、日本からの取材はこれが限界という感じがします。
寮によってネクタイのカラーが違うだけでなく、優秀な生徒だけが着ることを許されるブレザーがあったり、ヒエラルキー。
卒業生のインタビューにあった「スポーツも音楽もアートももちろん大事ではあるけど、それ以上に勉強ができなくてはならない。勉強もできないのに何故ここにいる?みたいに見られてしまう。」「卒業する頃には全員が自信に満ちあふれています。勝ち組になるための野心と積極性を身につけています。ここは基本そういうことを教える学校だから。」という台詞がパブリック・スクールの本質を語っていると思います。
ザ・ナイン
⁡シュールズベリー・スクール
ラグビー・スクール
マーチャント・テイラーズ・スクール
ハロウ・スクール
ウェストミンスター・スクール
セント・ポールズ・スクール
チャーターハウス・スクール
ウィンチェスター・カレッジ
イートン・カレッジ

2022/06/04

『パブリック・スクール』

パブリック・スクール――イギリス的紳士・淑女のつくられかた (岩波新書)

『パブリック・スクール
イギリス的紳士・淑女のつくられかた』
新井潤美
岩波新書

「パブリック・スクールは好きですかー?」
「おー!」
といっても私のパブリック・スクールのイメージは、ウィリアム王子やハリー王子、エディ・レッドメインの通ったイートン校であり、『ハリー・ポッター』のホグワーツだったりするので、こちらを読んでみました。
イギリスにおけるパブリック・スクール成立の歴史と、小説、映画などに見られるイメージの変遷を中心に解説されています。
驚くのは階級と教育が分かち難くむすびついているところ。パブリック・スクールはアッパー・クラスおよびアッパー・ミドル・クラスの子弟が通うものであり、ロウアー・ミドル・クラスやワーキング・クラスの子供たちはグラマー・スクールに通う。
アッパー・ミドル・クラスとロウアー・ミドル・クラスは同じ「ミドル・クラス」でもまったく違う階級。
パブリック・スクールの「パブリック」は公立ではなく、私塾や家庭教師の「プライベート」に対する「パブリック」。
理想的な教育の場としてのパブリック・スクールのイメージは「学校物語」を通してイギリス文化となり、ワーキング・クラスの子供たちにとっても憧れの対象となり、彼らの通うグラマー・スクールもパブリック・スクール的なものを模倣していく。
こうやってみていくと、実際のパブリック・スクール以上に、そのイメージの文化的影響が大きい気がします。
たとえば日本では『キャンディ・キャンディ』にロンドンの寄宿学校、聖ポール学院が登場しますが、これなんかもパブリック・スクールのイメージ(モデルかどうかはわかりませんが実際にセント・ポールズ・スクールというパブリック・スクールがあります)。
最近だと『SPY×FAMILY』のイーデン校はまんまイートン校の外観ですし、イートン校の優秀な生徒たち「キングズスカラー」のパロが「インペリアルスカラー」。
ちなみにAmazonで「パブリック・スクール」で書籍検索すると当然のようにBLものが並びます。まあ、そうだよね。
以下、まとめ。
579年、カンタベリーにキングズ・スクール開校
教会に併設され、グラマー・スクールと呼ばれるラテン語の教育をする役割
1382年、ウィンチェスター・コレッジ創立
国の政治を司る聖職者に良質の教育を与える目的
1440年 イートン・コレッジ創立
16世紀 グラマー・スクール創立の黄金時代
1561年 マーチャント・テイラーズ・スクール
1567年 ラグビー・スクール
1572年 ハロウ・スクール
事業に成功して富を得たミドル・クラスの人々が、自分のように成功する機会を貧しい少年に与えるために開かれた。
18世紀の終わりごろには、学費を払う生徒によって経営が成り立つようになり、慈善的な要素がほとんどなくなる。
アッパー・クラスの子弟を多く受け入れ、名が知られるようになったグラマー・スクールを、個人の私塾と区別するために「パブリック・スクール」と呼ぶようになった。
パブリック・スクールの「パブリック」とは、個人の家での教育(プライベート)との対比で使われた。
19世紀ごろでは、紳士の教育として私塾(private education)とパブリック・スクール(public education)のどちらがよいかということが論争の的になっていた。
ファギング(fagging)制度
下級生が上級生について、その身の回りの世話をしたり、使い走りをする代わりに、上級生の庇護下におかれる。
ラグビー・スクールの校長トマス・アーノルドによるパブリック・スクールの改革
学校長協会の設立
1857年『トム・ブラウンの学校生活』
「学校物語」により理想化されたパブリック・スクールのイメージが広まる。
1944年 公立の中高等学校制度が整備
1976年 公立のグラマー・スクール廃止、コンプリヘンシヴ・スクールに移行

2022/05/25

『平家物語』

平家物語
『平家物語』
長野甞一

『鎌倉殿の13人』を毎週泣きながら見ている私ですが、『鎌倉殿』は北条側の視点から書かれた『吾妻鏡』がベースなので、『平家物語』で知られているエピソードなどは出てこないことも多く、こちらを読み直してみました。
『平家物語』の現代語訳はたくさんあるのですが、長野甞一による現代語訳はわかりやすくコンパクトにまとめられていて、昔、受験対策用に買ったものがおもしろかったのでずっと手元に残していました。ところが、今回、見つけられず、結局、図書館で借りたという…。
(紙の本は絶版になっていますが、デジタル版が発売されています。)
あらためて読んでみると、『平家物語』は滅びの美学ですよね。
殺した若武者が笛を持っていることに気がつき、今朝方、聞こえてきた美しい笛の音はこの少年が奏でていたのかと涙する場面とか。
那須与一で有名な扇の的も昔はなんで戦場で扇?と思ったけど、敵と味方が並ぶ真ん中に美女の乗った船が現れるとか、水面に舞い落ちる扇とか、平家側の雅さがあって美しいです。
大音声で名乗りをあげ、これまでと思えば潔く自刃する、この頃の死生観はどんな感じだったのか。
ちなみに、著者が解説で書いていた「息子が生まれたら長野太郎義宗とつけたかった」という話がとても好きでした。九郎義経とか小四郎義時とか、和風ミドルネーム、いいよね。
同じく解説にある『平家物語』後日談、建礼門院の物語も読んでみたいです。
「われこそは朝日将軍源義仲だ。われと思わん者どもは、義仲を討って頼朝に見せよや」



2022/05/17

『ロリータ』

ロリータ (新潮文庫)

『ロリータ』
ウラジーミル・ナボコフ
訳 若島正
新潮文庫

『テヘランでロリータを読む』『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』を読みたいと思ったのですが、そもそも『ロリータ』を読んだことないじゃん、ということで読んでみました。
前半は主人公ハンバートが語る幼女の魅力とか、ロリータに警戒されることなく、いかに彼女に近づくかといった話が延々と続き、ただもう気持ち悪い。
彼のいうところの「ニンフェット」とは、9歳から14歳で、2倍以上の年上の相手に対してのみ、悪魔的な魅力を発揮する少女のこと。
出会ったとき、ロリータは12歳、ハンバートは37歳。この年齢差で恋愛が成り立つとはやはりありえず、ロリータが早熟な少女だとしても二人の関係は児童虐待に思えます。
『テヘランでロリータを読む』では、イスラム世界では幼い少女が年上の男性に嫁がされる現状が指摘されていて、ハッとしました。
『ロリータ』自体はハンバートの視点で書かれているので、奔放な少女に振り回されている哀れな中年男性の話に見えますが、『テヘランで〜』の視点から読むと、子供時代を奪われたロリータの悲鳴のようなものも感じられます。
プルースト、ポー、ジェイムズ・ジョイスからの引用や言葉遊びを多用した文章は非常に読みにくく(そもそも元ネタを知らないのでひねってあってもおもしろくもなんともない)、訳者の若島さんはナボコフの研究者でもあるようですが、詳細な訳注の「ハンバートはなぜそうしたのか、考えてみること」といった上から目線にちょっと引きます。
後半、ハンバートが苦しみだしてからやっと話がおもしろくなってくるんですが、冒頭から伏線がめちゃくちゃ引かれているので、残り3分の1くらいになってから前半をちょこちょこ読み直しました。スラップスティックな終盤は戸惑うところですが、ここでのハンバートの後悔が一番の読みどころ。
読了してみると全体的には読み応えのある作品だったと思うのですが、「ロリータ」という言葉自体が作品から離れて一人歩きしており、日本における「ロリコン」とか「ロリータ・ファッション」などはまた別に考えてみたいところです。

2022/04/17

『赤毛のアン』

赤毛のアン (文春文庫)

『赤毛のアン』
L.M.モンゴメリ
訳 松本侑子
文春文庫

『赤毛のアン』シリーズは村岡花子訳で育ったので、基本的には花子マンセーな私ですが、20代の子が松本侑子訳でシリーズを読んでいたので理由を聞いたところ、「村岡訳ではディテールが削られている」からとのことでした。
村岡花子訳は完訳ではなく抄訳だったというのは今ではよく知られた話らしく、訳した時代もあって花の名前など誤訳もあるそうです。
特にマシューが亡くなったあとのマリラの告白部分が村岡訳ではバッサリ省略されており、児童文学として読ませたかった村岡花子の意図なのか、オイルショックなどで紙がなく、ページを切り詰めなければいけない編集側の意向があったのではなどと言われています。
(今では孫の村岡美枝・村岡恵梨によって完訳版が出ています。)
というわけで松本侑子訳を読んでみました。
松本さんは村岡花子訳を尊重しているようで『輝く湖水』や『腹心の友』などの言い回しやマシューの話し方なども踏襲されていて、違和感なく読めました。
風景描写が特に美しく感じられたので村岡訳とも比較してみましたが、村岡訳は省略されているというより、短い文章におさまるように意訳されているといった感じでしょうか。(映画の字幕みたいな感じ?)
グリーン・ゲイブルズの十月は美しかった。秋の陽ざしをあびて二番刈りの牧草地がひなたぼっこをしている間に、窪地の白樺は日光のような金色に、果樹園の裏手のかえではみごとな深紅に変わり、そして小径の山桜は、濃い赤と青銅色のあやなす美しい色あいを帯びていった。
(松本侑子訳)
グリン・ゲイブルズの十月はじつに美しかった。窪地の樺は日光のような黄金色に変わり、果樹園の裏手の楓はふかい真紅の色に、小径の桜は言いようもなく美しい濃い赤と青銅色の緑に染って、その下にひろがる畑をも照りはえさせていた。
(村岡花子訳)
うーん、でもこうやって並べてみると長さに大差ないですね。そうすると、マリラの告白は物語の中でも重要なシーンなので、これをカットしたのは紙面の都合というよりかなり意図的なものではないかと思います。
年をとってマリラの気持ちも理解できるようになったということもありますが、あらためて読むとアンの成長物語であると同時に、マリラの物語でもあるんだよなと。
そのほか、
「さしこのふとん」(村岡訳)→「ベットカバー」(松本訳)
原文は「キルト」なんですが、この場合リンド夫人が編んでいるのはベットカバー用のキルト。
「つぎもの」→「パッチワーク」
「りんごあおい」→「アップルセンテッドゼラニウム」
有名なところでは
「ふくらんだ袖」→「パフスリーブ」
ここらへんは村岡花子訳の時代(1952年出版)ではまだ日本で知られていなかった言葉だからというのがありそうです。
アンが「メイフラワーのない土地に暮らす人は、かわいそうね」と言っている「メイフラワー」は、村岡訳では「さんざし」ですが、松本訳の解説によると「イギリスでは、落葉木のセイヨウサンザシをさすが、カナダも含めた北米では、トレイリング・アルバタスを意味する」そうで、写真を見る限りけっこう別の花。ちなみに、日本には咲いてません。
個人的にはルビー・ギリスの「崇拝者」という言い回しが好きだったんですが、松本訳だと普通に「愛人」、「恋人」になってました。
松本訳は訳注とあとがきだけで100ページあり、シェイクスピアや英詩などの引用についても詳しく解説されています。
特に今回勉強になったのはカナダの歴史。
カナダの建国が1867年、『赤毛のアン』の時代背景が1890年頃で建国から20年くらい。マリラやマシューが生まれたころはまだカナダという国はないんですね。
(「演奏会を開いて学校に国旗を買うのは愛国心を育てるでしょう」というアンのセリフがありますが、ここらへんからもカナダがまだ若い国だというのがわかります。)
プリンス・エドワード島は、フランスが最初に入植開拓し、英仏戦争でイギリス領となり、イギリスからの移民が開拓。レイチェル・リンド夫妻は名前や諺などからおそらくアイルランド系、マシュー、マリラのカスバート家はスコットランド系ケルト族。どちらもイギリスからの移民です。
(マシューのお墓に供えられているのは、マシューのお母さんがスコットランドから持ってきたバラ。)
こうした歴史的背景もあり、『赤毛のアン』に登場する使用人はおもにフランス人で一段低く見られています。アンが失敗したケーキを使用人のジェリーも食べないというセリフがありますが、ここでは人間→使用人→豚ですよね〜。
「とにかく、あのケーキは豚にやっておいで」マリラは言った。「あれは人間が食べるもんじゃないよ。ジェリー・ブートだって無理だよ」
私たちが『赤毛のアン』を通して知ったキルトのベットカバーやハーブの花、バスケットにお弁当を詰めて出かけるピクニックなどはイギリス文化なんですね。アンが小舟に乗って演じるエレーンの話も『アーサー王伝説』なのでケルトの物語。
訳注のおかげでこうしたことがだいぶ理解できました。ただ訳注がちょっとネタバレ気味なので初読で松本訳はどうなんだろう。私は副読本というか解説本的に読みました。
それにしても何度も読んでいて筋もセリフも覚えているのに今でも楽しく読めるなんて『赤毛のアン』てやっぱりすごいし、村岡花子先生には感謝したいです。

『占いをまとう少女たち』

占いをまとう少女たち 雑誌「マイバースデイ」とスピリチュアリティ (青弓社ライブラリー)

『占いをまとう少女たち
雑誌「マイバースデイ」とスピリチュアリティ』
橋迫瑞穂
青弓社ライブラリー

1980年代に少女たちの間に広まった「占い」と「おまじない」ブームを牽引した雑誌『マイバースデイ』を読み解き、80年代から2000年代の女性と占いの関係性の変遷を追う。

『魔女狩りの地を訪ねて』を読んで、魔女と占い、おまじないって切り離せないよねと思ったので、こちらを読んでみました。

『マイバースデイ』は1979年に創刊された占い専門雑誌。私は区別ついてなかったけど、『マイバースデイ』が実業之日本社、『Lemon』が学習研究社の刊行。2006年に休刊。

『マイバースデイ』だったか『Lemon』だったか星座別に毎日の占いが載っていて、透明な下敷き(あったよね!)にページを切り抜いていれている子がいたり、自分の星座ではないページを友達がくれたりしました。まあ、毎日の占いなんてそんなに熱心に見続けられるものでもないんですが。

この本のなかで紹介されているものだと「金星が輝く晩にワインを供えて呪文を唱え、洗面器と鏡を用意してそのなかを覗き込む」のように「おまじない」の手順が結構複雑で(金星が輝く晩っていつ?)、そんな面倒なことやってられるかという感じで私ははまらなかったなあ。

それでも、やはりこの本に出てくる「ティーカップにジャムを入れて月の女神に呼びかける」とか「小さな鈴をハンカチに入れて持って歩く」といったおまじないになぜだか見覚えがあるので、このページを友達にもらったか、ポピュラーなおまじないだったんでしょうか。
(比較的簡単なおまじないだから、やる気があったのかもしれない。)

「白魔女」という理想像に向けて、「魔女っこ」として読者が努力する、そのために「おまじない」があったというのはなかなかおもしろい見立て。

また、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件により「宗教ブーム」に対する忌避感が生まれ、「おまじない」が魅力を失っていき、2000年になってスピリチュアル・ブームが起こり、成人女性が主な担い手であること、最近では妊娠、出産に結びついていること、などおもしろい指摘も多い。
(『マイバースデイ』の読者だった少女たちが大人になってスピリチュアルブームの担い手になった訳じゃないような気もしますよね。また別の世代な気がする。)

しかし、社会学的な文体もあって、分析は丁寧なのに、結論や考察がややいきなりで読みにくいというか、うまく飲み込めないところも多かったです。

ポプリとかフェルトの人形の手作りとか、80年代少女文化については、懐かしいというより、なんだったんだあれはという気持ちが強く、社会学者が考察して何か答えが出るのかどうかわかりませんが、ほかにもいろいろ本が出ているようなので読んでみたいです。


2022/03/19

『悪童日記』

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

『悪童日記』
アゴタ・クリストフ
堀茂樹 訳
ハヤカワepi文庫

ウクライナ情勢に関連して東欧文学でも読んでみようと手に取ってみました。フランス語で書かれているけど、作者アゴタ・クリストフはハンガリー出身。

作品の歴史的背景については訳者による詳しい解説があるけれど、基本的にどこの国のいつの物語なのかは書かれていない。

おもしろいとは聞いていましたが、噂にたがわぬおもしろさ。双子の少年たちの倫理は独特で、窃盗、恐喝、殺人もいとわず、残酷なまでに冷静に人を裁く一方で、兎っ子や魔女とよばれる祖母に対してはとても親切。誰が正しくて誰が敵なのかもよくわからぬ状況の中、彼らは自分たちのルールで生きていく。

感情を排した書き方はクールというより、暗いはずの世界をユーモラスに描いていて、いろいろ恐ろしいことが起こっているのに、物語は終始明るい。

双子として書かれているけど、彼らは本当に2人なのか、残酷な天使のような少年たち。続編も気になります。


『EPICソニーとその時代』

EPICソニーとその時代 (集英社新書)

『EPICソニーとその時代』
スージー鈴木
集英社新書

『アンジェリーナ』、『そして僕は途方に暮れる』、『My Revolution』、BARBEE BOYS、ドリームズ・カム・トルゥーなど、80年代のキラキッラな音楽を生み出してきたEPICソニー。
名曲の分析、レーベルの歴史、プロデューサー小坂洋二、佐野元春インタビューを収録。

冒頭でそれぞれの曲を最初に聴いたときの思い出が書かれているんですが、これよくわかる。最初に聴いたときを覚えているくらいEPICソニーの曲というのは新鮮で衝撃的でした。

私の場合、『そして僕は途方に暮れる』は校内放送。クラスで一番かわいい女の子を捕まえて「これ誰の曲?」とたずねました。特別仲が良かったわけでもないのになぜその子に聞いたのか。彼女なら知ってるはずとなぜか思った。

バービーボーイズは陸上部の後輩でマネージャーの順子ちゃんが「先輩こういうの好きだと思う」ってテープをくれました。最初に聞いたのは『負けるもんか』。

ドリカムは渋地下で短期バイトをしていたときにラジカセから繰り返し流れていた『うれしはずかし朝帰り』。この時もバイト先のかわいい女の子に「誰の曲?」と聞きました。あとからわかったけど彼女がドリカム好きなんでほかのバイトくんが彼女のためにかけていたらしい。

「EPICソニーのアーティストは美男美女」というのはわりと真髄をとらえているのではないかと思います。
私にとってEPICソニーとは「おしゃれな子が聴いているかっこいい音楽」で、そのキラキラ感にあこがれた。

90年代になってキラキラ感がごく普通のものになり、J-POPになっていく過程で失われていってしまうのですが、今聴いてもやっぱり眩しいなあ。

佐野元春がインタビューで素で「キッズたちが」とか言ってるのかっこよすぎ。日常会話でキッズ言って様になるのは彼くらいでしょう。


2022/03/09

『青い眼がほしい』

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

『青い眼がほしい』
トニ・モリスン
大社淑子 訳
ハヤカワepi文庫

「秘密にしていたけれど、一九四一年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。あのとき、わたしたちは、マリーゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた。」

最初の章のこの冒頭からもう心を鷲づかみ。トニ・モリスンの文章は歌うような美しさがあります。

青い眼がほしいと祈る黒人の少女ピコーラ。黒い肌に青い眼、それが美しいと思ってしまうピコーラ。彼女がかわいいと思うのはシャーリー・テンプルのような少女。

たいして語り手であるクローディアは、大人たちがくれた白い肌、金髪で青い眼のベビードールをばらばらにこわす。
(黒人の女の子に金髪で青い眼の人形をあげるってよく考えると奇妙なことなんですが、昔は日本の女の子もこういう人形に憧れたんですよね。リカちゃんはフランス人と日本人のハーフだし、ジェニーは元がバービーだし。)

「難解な作品」「よくわからなかった」という感想がいくつかあった。たしかに構成は少し複雑ですが、基本的にはピコーラを中心に、彼女の父親、母親、彼女をいじめた黒人の少年たち、白人の少女たち、それぞれの視点が交錯し、彼女を追い詰めたものを描いている。

人種差別を背景にした残酷なストーリーなんですが、読み終わって残るのはほのかな光のような美しさ。
それはトニ・モリスンがあとがきで解説しているような「正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ」であり、「たんに目に見えるものではなく、人が〝美しくする〟ことのできるもの」、ピコーラにはわからなった「自分が持っている美しさ」のような気がします。

2022/03/03

『魔女狩りの地を訪ねて』

魔女狩りの地を訪ねて: あるフェミニストのダークツーリズム

『魔女狩りの地を訪ねて: あるフェミニストのダークツーリズム』
クリステン・J・ソレ―
松田和也 訳
青土社

『魔女街道の旅』が物足りなかったので、「魔女狩りの地を訪ねるトラベラーズガイド」という似たような構成の本書を読んでみました。
(原題は『Witch Hunt A Traveler’s Guide to the Power and Presecution of the Witch』)

イタリア・フィレンツェから始まり、イタリア・シエナ、ジェノヴァ、ヴァティカン、フランス・ルーアン、パリ、ドイツ、アイルランド、イングランド、スコットランド、アメリカ・ヴァージニア州、マサチューセッツ州セイラム、ニューヨークと魔女狩りの地を訪ねる。

魔女狩りの記念碑が立っていたり、ガイドツアーのテーマになっていたり、拷問具が展示されていたり、魔女術の土産物屋があったり、ホテルになっていたり、どこも観光地化してるんですね。

悪文というか、著者の独特の書き方(観光地を歩いていると、その地で犠牲になった女性の霊が現われてしゃべりだすとか、ときおり挟みこまれる皮肉めいた話し言葉とか)と、なんでこんな漢字を当てているの?という日本語訳もあり、非常に読みにくいんですが、「この場所を訪れて私はこんなことを感じた」という雰囲気は伝わってきます。

なんでもかんでもジェンダーにつなげてしまうのはどうかと思いますが、フェミニストである著者の視点から魔女狩りの歴史が語られているのもおもしろいです。

次々と夫を変えた女性が性愛魔術を使ったとして迫害されたとか、魔女とされた娼婦たちがいたこととか、エロティックで淫らな魔女の絵画に反映された男性たちの欲望とか、魔女とセクシャルは無縁ではないのですね。

特に「老婆=魔女」という、今まで読んだ魔女狩りの本では朧げに書かれていたことが追究されているのも清々しい。

著者は否定的ですがジャンヌ・ダルクのトランスジェンダー説なんかもあったり。

いくつもの論文が引用されており(さすがに欧米だと魔女狩りって研究対象なのか)、天候悪化、宗教的対立、性的差別など、迫害の対象となった女性像が論じられているのも興味深かったです。

2022/02/24

『君さえいれば/金枝玉葉』


懐かしくて見てしまった。

レスリー・チャン、アニタ・ユン、カリーナ・ラウ出演のラブ・コメディ。監督はピーター・チャン。

豪華メンバーなんだけど、残念ながらラブコメ部分がちっともおもしろくないんだな。見始めてから、ああ、そういえばそうだったと。

ゲイネタで笑いを取ろうとするのは当時も無理があったんだけど今見るともう差別ではないかと。当時はまだ公表してなかったと思うけど、同性のパートナーがいたレスリー的にはつらかったんではなかろうか。

それでもアニタ・ユンがレスリーに恋に落ちる瞬間とか、カリーナ・ラウの「私を射止めてね」とか、「走っていけよ」とか、いい場面もちょこちょこあります。

当時大好きだったアニタ・ユン。
そして、レスリー・チャン。
雑誌のインタビューで「この映画のいいところは」と聞かれて、「レスリーとキスできたこと!」と無邪気に答えていたアニタを思い出しました。

2022/02/23

『ハリー・ポッター20周年記念:リターン・トゥ・ホグワーツ』

これが見たくてU-NEXTに登録したのに香港映画や韓国ドラマにうつつをぬかし、そろそろトライアル期間が終了してしまうのでやっと見ましたハリポタ同窓会。

内容自体はもうネット上に公開されているのでそれほど驚きはありませんが、エマがトムに恋したときの話、ダニエルがヘレナに送ったラブレター、ダンスシーンやキスシーンの苦労話、そしてルパートが「僕たちは家族だ」という場面はやっぱり感動的です。

全体的にはちょっと綺麗にまとめすぎている感もあるのと、シェーマスたちの出番が少ないのはもったいない気もします。

グリフィンドール談話室だけでなく、スリザリンとかグリンゴッツ銀行とか魔法学の教室とか、どうやって撮影しているのかと思ったら、ハリー・ポッター・スタジオ・ツアー・ロンドンのセットで撮っているみたいですね。これはたしかにちょっと行ってみたい。

『ハリー・ポッター20周年記念:リターン・トゥ・ホグワーツ』

『韓流スターと兵役』

韓流スターと兵役 あの人は軍隊でどう生きるのか (光文社新書)

『韓流スターと兵役 あの人は軍隊でどう生きるのか』
康熙奉
光文社新書

『星から来たあなた』のキム・スヒョンのプロフィールをチェックしていたら、『星から来たあなた』(2013年)のあと『プロデューサー』(2015年)に出演。2017年から2019年まで兵役。除隊後、『サイコだけど大丈夫』(2020年)で復帰、とありました。

ああ、韓国には兵役があるのだったと、前から気になっていたこちらを読んでみました。

最近だとBTSの兵役が問題になっていますが、こちらは2016年出版なので東方神起あたりの話が出てきます。

韓国の男子は高校を卒業すると徴兵検査を受け、おそくとも30歳までには入隊。21〜24ヵ月の兵役を務め除隊。除隊後も40歳までは毎年数時間の訓練に参加しなければならない。

「ファンにできるのは信じて待つことです」みたいなトーンがちょっと疲れるのと、兵役のシステムはよくわかったけれど、もう少し感情的な辛さの部分が詳しく知りたかった。
(兵役に行く韓国の学生と日本人の彼女の恋愛を描いたコミック『フォーナイン』では、前日まで彼女とイチャイチャ過ごしていた大学生が軍隊に放り込まれる衝撃がよくわかるので、ここらへんをもっと知りたい。)

『ブラザーフッド』(2004年)の監督がインタビューで「韓国の俳優は兵役の経験があるので銃の扱いには慣れています」とさらっと答えていて、そのさらっと感にびっくりしたことがあります。出演していたウォンビンが記者会見で「いつ兵役に行くのか」と質問され(この質問もすごいプレッシャー)、「今回の撮影はよい予行練習になりました」と答えていたり、スター俳優とはいえ兵役がついて回るのかと。
(この本によるとウォンビンはその後2005年に入隊、怪我をして半年で除隊するものの、復帰したのは2009年『母なる証明』。)

文中に出てくるヒョンビンの前向きすぎる入隊インタビューにもちょっと驚きます。彼は除隊後、北朝鮮の軍人を演じた『愛の不時着』が大ヒットしているので、軍隊経験が生かされているとも言えますが。

また、「軍隊はどこに行ってきたのか」が男同士の挨拶代わりになるとか、兵役に行っていないと一人前の男とみなされないあたり、ホモソーシャル的な土壌も感じました。

2022/02/14

『ヘミングウェイ スペシャル』

ヘミングウェイ スペシャル 2021年10月 (NHK100分de名著)

『NHK100分de名著2021年10月 ヘミングウェイ スペシャル』
都甲幸治
NHK出版

卒論を『キリマンジャロの雪』で書いているのでヘミングウェイの作品はほぼ読んでいますが、『老人と海』はテーマが単純で深い読みのできない作品で、おもしろみもないので代表作のように言われているのはなんだかと思っておりました。

しかしながら、『100分de名著』の都甲さんの解説はすばらしく、「パパ・ヘミングウェイ」としてマッチョなイメージのあったヘミングウェイが、最近の研究では性的指向が曖昧であったり、決して強くはない人物であったこと、『老人と海』や『敗れざる者』など弱い者、負け続ける者をくりかえし書いていたこと、キューバを舞台にスペイン語を話す人々の物語であり、ラストに隠されたアメリカ批評など、新しい発見がたくさんありました。

とくにアメリカ文学の系譜、モダニズム文学の影響などからあらためてヘミングウェイを見るというのは勉強になりました。

最近ではフィッツジェラルドと比べると人気のないヘミングウェイですが、今こそ「男らしさ」という固定観念を引きはがして読み返してみるべきというのも納得です。

『美の巨人たち』という番組でムンクの『叫び』は「叫んでいるのではなく叫びを聞いているのだ」という解説を聞いて以来、絵を見るときには知識も必要だと思うようになり、美術展では必ず音声ガイドを借りて見るようにしています。
もちろん、なんの知識もなく、「これは好き、これは美しい」と感じることも大切だと思いますが、より楽しむためには背景を知っていたほうがいい。
今回の『100分de名著』は文学にも同じように解説があってもいいんだなと思いました。

2022/02/13

『富士日記(中)』

富士日記(中)-新版 (中公文庫)

『富士日記(中)』

武田百合子
中公文庫

上巻を読んだのが2020年1月なので約2年ぶり。年末年始に山梨に持っていったものの読み終わるのに1ヵ月以上かかってしまった。
日記なのでたらたら読んでもいいのですが、図書館の返却期限も過ぎてしまったので後半はほぼ一気読みでもったいない感じ。

『富士日記』のおもしろさはなんだろう。あとから推敲してあるだろうとは思うのだが、基本的には人様の日記。日々の買い出しの記録と、食事の記録(これが地味ながらおいしそう)、別荘の暮らしなので「ていねいな暮らし」というよりは散歩、家事のあいまに原稿を出しに行ったり、河口湖に遊びに行ったりするくらいで、静かな淡々した日常であるが、百合子さんの性格なのか、あまり淡々という感じでもない。

夕陽に向って踊ってみたり、感動すると体操してみたりする百合子さんのユニークさ。観察眼や言葉の選び方の新鮮さ。

上巻は別荘を建てたばかりで、新しい生活や近所の人との交流が中心だったけれど、中巻では週末ごとの行き来にも慣れ、季節の移ろいがそのまま記録されている感じ。でもこれが退屈しないんだよなあ。

50年前の日記なので別荘のあたりもだいぶ変わっていると思うが(別荘自体はすでに取り壊されている)、一度ゆっくり巡ってみたい。

2022/02/06

『星から来たあなた』



 400年前に地球にやってきた宇宙人とスター女優のラブ・コメディ。

チョン・ジヒョンめあてで見始めましたが、キム・スヒョンくんのかわいいこと!

いつもは冷たく「出ていけ」とか言っているのに、彼女の言動に心が動かされると目の動きなどちょっとした表情で動揺をあらわしているのがうまい。普段クールなぶん、ふと見せる笑顔がとても良い。「ツンデレ演技」と評されてますが、彼はこれをちゃんと計算して演技してますね。

7話のラストなどチョン・ソンイならずとも恋に落ちるかっこよさ。

ドラマでも少女マンガでも、この「あー、わかる、これは好きになっちゃうよね」という共感を描けるかってすごく大事なポイントだと思うんですよね。ただただかっこいいでも、危ないところを助けてくれたでも、単純な理由でいいんです。この共感があるから、そのあとの涙や喜びも共感できる。

対するチョン・ジヒョンもあいかわらずのかわいさ。こんな自分勝手なヒロイン、振り回されるほうは大変だと思うんだけど、彼女が演るとそれが魅力になる。

日本版リメイクがあるらしいですが、この2人のキャラクターがあってこそ成り立つドラマなので誰がやってもオリジナル超えは難しい。

フィギョンやセミ、悪役兄さんなど、まわりの配役も魅力的。脚本は『愛の不時着』も手がけているヒットメーカー、パク・ジウン。しばらく韓国ドラマを追いかけてみたいです。

『星から来たあなた』

2022/01/30

『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた』

ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた――あなたがあなたらしくいられるための29問

『ジェンダーについて大学生が真剣に考えてみた
――あなたがあなたらしくいられるための29問』
一橋大学社会学部佐藤文香ゼミ生一同
明石書店

「専業主婦になりたい人もいるよね?」「女性も『女らしさ』を利用しているよね?」「どうしてフェミニストは萌えキャラを目の敵にするの?」といった疑問を考えながら、男女平等、セクシャル・マイノリティ、フェミニズム、性暴力について学んでいく。

ジェンダーを学ぶ大学生が、友人や知人からよく投げかけられる質問にいかに答えるべきかというところから始まったそうで、とてもわかりやすく、ジェンダー入門書として最適の一冊。
(上野千鶴子をはじめ、社会学って文体がそもそも読みにくい。)

個人的には最近知った「アセクシャル」という言葉についての回答がなかなか目から鱗でした。
私の世代は、少女マンガ、歌謡曲、テレビドラマ、ファッション雑誌など、どれをとっても恋愛至上主義。
「恋愛して結婚して子供をもって幸せな家庭を築く」という「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」がひとつの理想として語られてきたわけですが、もしかしたらそれは経済的、商業的に洗脳されていたのかもしれません。
「人を愛すること、愛されることはすばらしい」ということには今でも疑問をもちませんが、それがすべてじゃないし、そうじゃない人もいるよね、と考えてみることも必要なのだと思いました。

一橋大学では2015年にゲイであることを友人に公表された男子学生が自殺するという事件が起きており、この「アウティング」についてもページが設けられています。
どうするのが正しかったか、簡単に答えはでませんが、セクシャル・マイノリティへの理解が周囲にあれば、また違う結果があり得たかもしれません。
ジェンダーについて、一方的な論理の展開ではなく、一緒に考えてみるという姿勢が全体に貫かれているのもよいと思います。

『夫婦別姓』

夫婦別姓 ――家族と多様性の各国事情 (ちくま新書)

『夫婦別姓 ――家族と多様性の各国事情』
栗田路子、冨久岡ナヲ、プラド夏樹、田口理穂、片瀬ケイ、斎藤淳子、伊東順子
ちくま新書

2021年の衆議院選挙のときに争点のひとつとなった「選択的夫婦別姓」。結果としては、すぐに夫婦別姓を推進するほどの票差ではなく、まだまだ道のりは遠いなと感じました。

私が20代のころは「あんたが結婚するころには夫婦別姓が選べるようになってる」と言われたのですが、結婚もしなかったけど、夫婦別姓も実現してないですね。

当時の同級生たちは次々と結婚して名前が変わり、すでに結婚後の苗字のほうが長くなっている人も。彼女たちに葛藤があったのかなかったのかは知りませんが、年賀状とかくるたびに旧姓も書いてくれないと誰が誰だかすぐにはわかんないなと思っておりました。

そんななかで一人、イギリス人と結婚した友人は私と同じ苗字だったんですが、チアキ・ヒラノ・カンバーバッチみたいな名前になっていて(適当なネーミングですみません)、旧姓を捨てることなく、新しい名前というのが新鮮でした。

1980年代ごろから2000年代にかけて各国とも法律を変更しており、今では夫婦同姓を法律で規定しているのはなんと日本だけ。
本書では、イギリス、アメリカ、フランス、ベルギー、ドイツ、中国、韓国とそれぞれの国で暮らすライターたちが各国の現状をレポートしています。

結婚しようがしまいが名前が変わることのない中国、韓国、ベルギー。結婚と関係なく好きなように名前を変更できるイギリス。別姓、連結姓のほか、好きな苗字を作ってしまえるアメリカ。

男尊女卑ゆえに母や娘は父系の姓を継ぐことがなく、結果的に別姓であった中国。宗教的な理由などで男性側の姓を名乗る率がまだまだ高い国など、歴史的な経緯もさまざま。
そもそも父系側の姓を男子が継ぐのも、相続されるべき土地や財産があり、相続によって分散させないために名前ごと受け継がれた時代の話。

離婚や再婚などで父親、母親、子供、全員の姓が違うなんていうのが当たり前の国もあったり。「同じ苗字=家族の絆」なんて考えがいかにばからしいか。

最終章の座談会では、経済、法律、政治の分野から選択的夫婦別姓の実現について検証しているんですが、なかなか進まない現状が見えてきて、まだそんなことやってるのかという気分になります。

2022/01/26

『ラヴソング』

 『ハリー・ポッター』同窓会のためにU-NEXTに登録してみたところ、『ラヴソング』が配信されていたので思わず見てしまう。

もう2、3回見てると思うんだけど、10年にわたる男女の恋模様、変わりゆく香港、随所で流れるテレサ・テン、この構成がうまくて、なんか好きなんですよね。

『グッバイ・マイ・ラブ』の使い方とか、ラストとか、何度見ても良い。

1996年の公開作。今見ると中国返還前の「私たちこれからどうなるの」という不安感、この後低迷する香港映画ラストのきらめきも感じられます。

2022/01/16

『クララ白書I』

クララ白書I (集英社コバルト文庫)

『クララ白書I』
氷室冴子
集英社コバルト文庫

某所で『クララ白書』の名前を聞いて、「どんな話かほとんど忘れたけどドーナツ揚げてたよね」と盛り上がり、再読してみたいと調べたのですが、現在普通に手に入るのは2001年のコバルト文庫新装版のみ(それも紙の本は絶版のようでKindle版のみ)。

こちらは氷室冴子自身によって1996年に加筆修正されていて、携帯やネットなど「現代風」に多少変更されているようです。

オリジナルは1980年発売。オサムグッズの偽物みたいな表紙だと思ったら原田治本人でした。こっちが読みたかったんだけど図書館にも2001年版しかなかったです。
(2001年版表紙イラストは谷川史子。意外と中のイラストも雰囲気あってました。)

加筆修正されていることもあるかもしれませんが、今読んでも普通に読みやすくておもしろい。恋愛とかほとんど関係なく(ボーイフレンドが出てくる程度。ボーイフレンドだよ!)、女の子たちがただわちゃわちゃしている感じが、古き良きコバルト感。

吉屋信子とか古事記とか文中に出てきますが、氷室冴子という人は古典や海外の少女小説、少女漫画への憧れをベースに「コバルト文庫」という新しい少女小説を作り上げた人なんだなあと今更ながら思いました。もちろん彼女一人ではなかったけれど、氷室冴子やコバルト文庫がなかったら、今に続くライトノベルや「なろう系」なんかもなかったのではないかと。

2022/01/02

『イルマーレ』

 

  全日本フィギュアを見るためにFODに登録したのでちょこちょこ動画を見てます。配信って便利だな。

『イルマーレ』は2000年公開作なのでもう20年も前。『シュリ』とか韓国映画が話題になり始めたころですね。

『猟奇的な彼女』のチョン・ジヒョン主演。サンドラ・ブロック主演でハリウッドリメイクもされてます。

今見るとタイム・パラドックスとしてはいろいろ難ありなんですが、シャレオツ過ぎる映像とチョン・ジヒョンはやっぱり綺麗だなというのと、海辺の家がじつは孤独の象徴でもあるんだなと。なんだかんだ好きな作品です。

『「女性天皇」の成立』

「女性天皇」の成立 (幻冬舎新書)

『「女性天皇」の成立』
高森明勅
幻冬舎新書

KK騒動にはまったく興味がないのですが、本来なら「おめでとうございます」と言われるはずの会見の席で、眞子さんが「心を守る」と発言していたことにびっくりして、会見動画を見てみました。

そもそも女性が天皇になれなくなったのはいつからなんだろう、歴史的には持統天皇というすばらしい前例もあるのに、と思って調べてみましたが、出てくるのは

『なぜ女系天皇で日本が滅ぶのか』
「「男系」とは、父親を遡っていけば必ず神武天皇に辿りつくという皇統の唯一のルールである。これを廃し、仮に女性天皇が中国人とご結婚されれば皇統は「中国系」となり、韓国人となら「韓国系」となり、イギリス人となら「英国系」になる。」とか、
『天皇の遺伝子 男にしか伝わらない神武天皇のY染色体』とか、もうタイトルだけでウンザリするようなものばかり。
比較的まっとうそうなこちらを手に取ってみました。(著者は神道学者、皇室研究者とのことですが、中国を「シナ」と表記していたりするので、一定のバイアスはかかっていそう。)

わかったのは天皇が男系男子に限定されたのは明治22年(1889年)の皇室典範より。古代の6人のほか、江戸時代にも2人、女性天皇がいる。

さらに昭和22年(1947年)の皇室典範で非嫡出子を皇位継承資格から外したことで、天皇の正妻が必ず男子を産まなければいけないという重いルールが課せられる。
(大正天皇は側室の子。現在の上皇は昭和天皇の5番目の子で、初めての男子)

天照大神が女性神であるというのはたしかに言われてみればという気がしますが、神武天皇と同じく神話の範囲だからなあ。

私は「万世一系」など初めから信じていないし、そもそも天皇制が存続する必要がどこまであるのかと思ったりするのですが、そこまでいうと話が大きくなりすぎるのでやめておきます。

愛子さんが天皇になりたがっているとも思われないし、皇室を離れたとはいえ、眞子さんが男の子を産んだりするとまた騒動になるんだろうなとか。皇族とは結婚相手や職業を選ぶ自由を著しく制限されているんだとあらためて思ったり。ただ男系とかY染色体とかが女性天皇を阻む理由ならそれはもうそこから打破していってほしいと思います。