『わたしが先生の「ロリータ」だったころ
愛に見せかけた支配について』
アリソン・ウッド
左右社
『テヘランでロリータを読む』に続いて、『ロリータ』です。
『テヘランでロリータを読む』は1980〜90年代、イラン・イスラーム政権下で女子大生たちが『ロリータ』を読みますが、こちらは2000年代、英文学の教師が女子高生に『ロリータ』を渡します。
「この本は、欲望であり、憧れであり、逃れがたい危険だ。」
26歳の教師と17歳の生徒の関係は年齢差だけでいえば、37歳のハンバートと12歳のロリータよりはるかにまともそうに見えますが、そこにあるのが「愛」ではなく「支配」だというのが問題。
この本に限らず、相手に『ロリータ』を読ませることで年齢差のある恋愛を正当化する男性の話をどこかで目にしたことがあり、それはやはり相当に気持ち悪い。
アリソンが易々と教師に飲み込まれていってしまう前半はイライラしてしまうんですが、客観的に見れば単なるエロオヤジみたいな教師も、不安定で助けを求めていた少女にとっては王子様なんですよね。
「愛ではなく支配だった」という関係性は、年齢差のあるなしに限らず、対象が少女でなくても起こりうるんじゃないかと思います。
ハンバートは「信頼できない語り手」であり、『ロリータ』は「愛の物語ではなく、レイプと妄執の物語である」と気がついた終盤の『ロリータ』論が秀逸です。
『ロリータ』に隠されたハンバートの真実、それを利用した(あるいはそもそも自分の都合のいいようにしか読解していなかった)教師の罠、『ロリータ』を再読することで過去の自分から解き放たれていくアリソン。
『ロリータ』という作品が読む側によってこんなにもいろんな面を見せることに驚きます。
「たしかに『ロリータ』は美しい。でも、同時におぞましくもある。そのふたつは両立しうる。」
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以下、引用。
17
ナボコフも、いい物語はすべておとぎ話だと書いている。十七歳のあのころ、わたしは誰かのプリンセスになる用意ができていた。
41
わたしが役をもらえたのは先生のおかげだと思った。先生がわたしの才能を保証し、骨を折ってくれたからだ。わたしのためにそんなことをしてくれるひとはもうずいぶん長いあいだいなかった気がする。まるでわたしの王子様が現れたようだった。
50
あのころ何よりもほしかったもの──ひとからの関心や、自分の人生を何らかの形でコントロールしているという感覚──を手に入れるには、魅力的でいるしかないと思っていたのだ。
きれいになるためには相当気を遣って努力する必要があったが──アイラインを引いたり、唇にグロスを塗ったり、日焼けサロンに行ったりして──その努力の跡は決して悟らせてはいけない。必死になっているのがわかれば、見下されて笑いものにされてしまう。それだけはごめんだった。
63
“高尚なポルノ” 一度ダイナーでフライドポテトを食べながらこんな風にいったことがある。「素晴らしいのはポルノと純愛小説が見事に融合しているところなんだ」
81
魅力的であらがいがたく、注目に値する存在であるためには、美しいだけではなく、問題を抱え、傷ついている必要があるのだと。美しさと悲しみが完璧な芸術をつくる。ナボコフは、美しさに悲しみを加えることで芸術に最も近くなると書いている。自分が美しいと感じるためには、あの教師の視線が必要だったのだ。
126
それはあの教師がわたしに仕掛けたゲームだった。ナボコフやキャロル、エドガー・アラン・ポーを使って、わたしたちの関係がごくありふれていると同時に特別なものであり、このうえなくロマンチックで、偉大な作家たちの伝統を受け継いだものだと思いこませようとしていたのだ。ハンバートが、自分と同じようにたまたま幼い少女を愛した、ペトラルカ、ダンテ、ウェルギリウスといった、有力で知性に溢れた芸術家たちの名を次々と挙げることで、変態的な嗜好をロマンチックに見せかけ、同時に正当化したように。
153
彼が飲んでいたのはパイナップルジュースが入ったギムレット──『ロリータ』でハンバートが飲んでいたカクテルだよと彼は言った。
188
「イサカはぼくらの家だ」ニックは何度もそう言った。「彼が『ロリータ』を紡いだこの場所で、ぼくらはふたりの物語を紡いでいくんだよ」
193
数年後、わたしはロリータがハート形のサングラスをかけているという描写はどこにもないことに(原作にはただ“サングラス”とあるだけだ)気づくことになる。あれはキューブリックがスー・リオンにかけさせた小道具にすぎなかったのだ。だが、あのキューブリックの映画ポスターはわたしたちの集合意識に焼きつき、以来赤いハート形のサングラスはスキャンダルとセックスの象徴になっている。
226
ロリータがハンバートのもとを去ると決めたとき何を考えていたのか、わたしたち読者にはわからない。ナボコフは、殺人の罪で裁判を受けるハンバートの視点でその手記を綴っている。ドロレス・ヘイズについて読者が知っていることはすべて、ハンバートの目という色眼鏡を通して見たものにすぎない。ロリータという名前もハンバートがつけた愛称だ。ハンバートが彼女をドロレスと呼ぶことはほとんどない。結局──彼女はハンバートのもとを去り、逃げてしまう。その事実はハンバートにとって理解のできない謎であり、ロリータはほかの男に誘惑され、食いものにされ、支配されているのだと思いこむ。自分の意志で去っていたのだとは考えもしない。
273
コールドウェル教授は黒板に“誰が誰を誘惑しているのか”と書いて講義をはじめた。
274
その瞬間のことはいまでもよく覚えている。教授がハンバート・ハンバートのことを「信頼できない語り手」だと言ったのだ。
「ロリータは愛の物語ではなく、実際はレイプと妄執の物語なんです」
276
『ロリータ』の第一部の最終章である三十三章で、ハンバートはドロレスに買ってやったプレゼントを列挙している。
漫画、箱入りのキャンディ、マニキュア、ソーダといった子どもじみた品が延々と並ぶなかに、箱入りの生理用ナプキンがまぎれこんでいる。箱入りの生理用ナプキン? わたしはそこにもアンダーラインを引いた。ちょうどそのタイミングで生理が来たんだろうか?
そうか、ドロレスはセックスで出血したんだ。わたしみたいに。ハンバートはドロレスを優しく扱わなかったのだろう。そして彼女を傷つけたことにも気づいていたが、それを読者に気づかれないよう文章のなかに隠していたのだ。だがあいて書いておいたのには理由がある。読者を操るためだ。読者に、ハンバート・ハンバートは正直者で裏がなく、繊細な語り手でさえあると思わせるためだ。
277
ポーが十三歳のいとこ、ヴァージニアと結婚しているのも決して偶然ではない。ハンバートの手記とされる『ロリータ』のなかで、ハンバートは優れた知識人たちが少女とニンフェット的な関係を結んでいたことに触れている。ダンテは九歳のベアトリーチェを愛し、ペトラルカは十二歳の少女に夢中になっていた。こうした知識人たちを引きあいに出すことで、ハンバートは自分のニンフェットに対する偏愛を美化し、それが正常であるばかりか、憧れの対象でさえあるかのように見せかけているのだ。
279
ナボコフはLを発音するときの舌の動きを一語一語解説している。ロリータ。言語(ランゲージ)。愛(ラブ)。プレイボーイ誌のインタビューではこう語っている。“澄みきった、輝くような音を持つ文字のひとつがLだ。そして接尾辞の「-ita」は、ラテン語の優しい響きに溢れている……だからロリータにした”
313
わたしは何週間もかけて講義要項(シラバス)をつくり、自分のコースに『パワフルな女たち』というサブタイトルをつけて、女性とノンバイナリーの作家ばかりを課題として取りあげ、エドガー・アラン・ポーのゴシックファンタジーのかわりにカルメン・マリア・マチャドの作品を扱い、ディケンズの小説のかわりに『ハンガー・ゲーム』を使って英雄の旅理論を教えた。『ライ麦畑でつかまえて』のかわりに『ベル・ジャー』を題材にして大人になることに葛藤する若い主人公を紹介し、プラスの華麗な言葉選びと自己移入について講義した。
クラウディア・ランキン、アイリーン・マイルズ、レスリー・ジェイミソン、ジャメイカ・キンケイド、ナタリー・ディアス、グレイス・ペイリー、エイダ・リモン、マギー・ネルソン、モーガン・パーカー
322
たしかに『ロリータ』は美しい。でも、同時におぞましくもある。そのふたつは両立しうる。
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