2022/11/16

『少年が来る』

少年が来る (新しい韓国の文学)

『少年が来る』
ハン・ガン
井手俊作 訳
クオン

梨泰院の事件のあと、そういえばまだこれを読んでいなかったと手にとってみました。
1980年に起きた光州事件をテーマにした小説、なのだがノンフィクション以上に生々しい。死者となった少年、生き残った少女、章ごとに変わる人物たちとともに、事件とその後を追体験しているような感じ。
韓国文学の翻訳者として知られる斎藤真理子さんが『少年が来る』の読書体験を水泳に例えていたけれど、深いところに潜っていくような息苦しさがあります。
ハン・ガンの文章は残虐な場面でも静かで、ときに美しくもあるのだけれど、引き込まれると同時に、またあそこまで潜って行かなければいけないのかと思うと一日一章ずつしか読み進むことができませんでした。読んだあとも水面に顔を出して呼吸ができるようになるまでに時間がかかる。
辛いけれどここまでの読書体験を与えてくれる文学はなかなかないので、これを味わうためだけにでも読む価値のある一冊。
光州事件については名前こそ聞いたことがあったものの、詳細についてはまったく知らず。知らなかったことにもショックを受けました。
40年前はたしかに過去ですが、1980年といえば、日本では松田聖子がデビューした年で、決して昔というほど昔ではない。天安門並みの事件が隣の国で起こっていたのにそれをまったく知らなかったこと、韓国国内でも1987年まで事件について語ることができなかったこと、それからまだ40年しか経っていないということ。
現在は日本よりもファッショナブルで、キラキラなイメージさえある韓国ですが、日本の戦後50年間くらいを韓国は10年ほどで一気に変化したようなところがあり、そのアンバランスさや歪みみたいなものを時々感じます。
梨泰院のような事件は日本でも起こる可能性があるのですが、どこかその歪みから生じているような気がしてしまうのです。
前田エマさんの書評でBTSの『Ma City』に光州事件について歌っている部分があると知りました。韓国の若者たちは光州事件を背負って生きているのだなと。

https://note.com/cuon_cuon/n/n3d5e6e37e5b6

以下、引用。
17
体が死んだら魂はどこに行くんだろう、ふと君は思う。どれくらい長く、自分の体のそばに残っているのかな。
22
軍人が殺した人々にどうして愛国歌を歌ってあげるのだろうか。どうして太極旗で棺を包むのだろうか。まるで国が彼らを殺したのではないとでも言うみたいに。
36
怖いのは軍人の方だよ、死んだ人のどこが怖いもんか。
54
魂は自分の体のそばにどれくらい長くとどまっているのかな。
それは何かの翼みたいに羽ばたいたりもするのかな。ろうそくの炎の先っぽを揺らすのかな。
69
真っ暗なこの茂みでぎゅっとつかんでいなくちゃならない記憶が、まさにそれだったんだ。
僕がまだ体を持っていたその夜の全てのこと。夜更けに窓から吹き込む湿気を含んだ風、その風が裸足の甲に柔らかく触れる感触。寝入った姉ちゃんからかすかに漂ってくるローションと湿布薬のにおい。リリリ、リリリ、と息を潜めて鳴いていた庭の草虫。僕たちの部屋の前で、次々と絶え間なく咲き上がる立葵の大きな花。台所脇にある君の部屋の向かい側で、ブロック塀越しに咲く野薔薇、真っ盛りに咲き誇ったその気配。姉ちゃんが二度なでてくれた僕の顔。姉ちゃんが愛した、僕の目をつむった顔。
93
あの男は左利きだから、左手で私の右頬をたたいたのだろうか。
でもテーブルに校正紙を投げ付けるとき、ボールペンを差し出すときは明らかに右手を使っていたけれど。
誰かを攻撃するときは、本能的に感情に関係する左手が動くのだろうか。
116
群衆の道徳性を左右する決定的な要因が何なのかはまだ明らかになっていない。興味深い事実は、群衆をつくる個々人の道徳的水準とは別に特定の倫理的な波動が現場で発生するということだ。ある群衆は商店での略奪や殺人、強姦をためらわず、ある群衆は個人であればたどり着き難いはずの利他性と勇気を獲得する。後者の個々人は、特別に崇高だったというよりも人間が根本的に備えている崇高さが群衆の力を借りて発現されたものであり、前者の個々人が特別に野蛮だったのではなく、人間の根源的な野蛮さが群衆の力を借りて極大化されたものだと筆者は語っている。
だとしたら我々に残された問いはこうだ。人間とは何なのか。人間が何かでないために我々は何をしなくてはならないのか。
119
雪は挽きたての米粉のように軽くて柔らかそうに見えた。しかしそれが美しいことはもはやあり得ないと彼女は思った。
141
自分が銃を手にすることができるかどうか、生きている人に向けて引き金を引くことができるかどうか考えてみました。軍人が手にした数千丁の銃が数十万の人々を殺害することができるのだということを、金属が体を貫通すれば人が倒れるのだということを、温かかった体が冷たくなるのだということを考えました。
155
僕たち、銃を手にしたよね、そうだよね?
私はうなずきもせず、彼に言い返しもしませんでした。
それが僕たちを守ってくれると思ったんだ。
自ら問い、自ら答えることに慣れているように、彼は杯に向かってかすかに笑いました。
だけど僕たちはそれを撃つこともできなかったんだ。
159
だから、兄貴、魂なんてものは、何でもないってことなのかな。
いや、それは何かガラスみたいなものかな。
ガラスは透明で割れやすいよね。それがガラスの本質だよね。だからガラスで作った品物は注意深く扱わなくてはいけないよね。ひびが入ったり割れたりしたら使えなくなるから、捨てなくてはいけないから。
昔、僕たちは割れないガラスを持っていたよね。それがガラスなのか何なのか確かめてみもしなかった、固くて透明な本物だったんだよね。だから僕たち、粉々になることで僕たちが魂を持っていたってことを示したんだよね。ほんとにガラスでできた人間だったってことを証明したんだよね。
163
つまり人間は、根本的に残忍な存在なのですか? 私たちはただ普遍的な経験をしただけなのですか? 私たちは気高いのだという錯覚の中で生きているだけで、いつでもどうでもいいもの、虫、獣、膿と粘液の塊に変わることができるのですか? 辱められ、壊され、殺されるもの、それが歴史の中で証明された人間の本質なのですか?
169
月は夜の瞳だと言った。
この言葉を聞いたとき、あなたは十七歳だった。
集会で最年少だったあなたは、なぜかその言葉が怖かった。あの黒い空の真ん中で、氷のように白くて冷たい瞳が一つ、黙って彼女たちを見下ろしている。
187
私が彼らの罪をゆるすように、父なる神が私の罪をゆるしてくださるなんて。
私は何もゆるさないし、ゆるしを受けもしないわ。
212
もうすぐ東の空が明るむはずだ。次第に明るくなって、八月の焼け付くような日差しが赤々と燃えるはずだ。かつて持っていた命をなくした全てのものが素早く腐っていくはずだ。ごみを出しておいた路地ごとに悪臭が広がるはずだ。
260
カンボジアでは二百万人以上も殺しました。我々にそれができない理由はありません。
261
つまり光州とは孤立したもの、力で踏みにじられたもの、毀損されたもの、毀損されてはならなかったものの別名なのだった。

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