2022/03/09

『青い眼がほしい』

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

『青い眼がほしい』
トニ・モリスン
大社淑子 訳
ハヤカワepi文庫

「秘密にしていたけれど、一九四一年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。あのとき、わたしたちは、マリーゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた。」

最初の章のこの冒頭からもう心を鷲づかみ。トニ・モリスンの文章は歌うような美しさがあります。

青い眼がほしいと祈る黒人の少女ピコーラ。黒い肌に青い眼、それが美しいと思ってしまうピコーラ。彼女がかわいいと思うのはシャーリー・テンプルのような少女。

たいして語り手であるクローディアは、大人たちがくれた白い肌、金髪で青い眼のベビードールをばらばらにこわす。
(黒人の女の子に金髪で青い眼の人形をあげるってよく考えると奇妙なことなんですが、昔は日本の女の子もこういう人形に憧れたんですよね。リカちゃんはフランス人と日本人のハーフだし、ジェニーは元がバービーだし。)

「難解な作品」「よくわからなかった」という感想がいくつかあった。たしかに構成は少し複雑ですが、基本的にはピコーラを中心に、彼女の父親、母親、彼女をいじめた黒人の少年たち、白人の少女たち、それぞれの視点が交錯し、彼女を追い詰めたものを描いている。

人種差別を背景にした残酷なストーリーなんですが、読み終わって残るのはほのかな光のような美しさ。
それはトニ・モリスンがあとがきで解説しているような「正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ」であり、「たんに目に見えるものではなく、人が〝美しくする〟ことのできるもの」、ピコーラにはわからなった「自分が持っている美しさ」のような気がします。

--------------------------------------------------
以下、引用。

尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーでうたっている。

彼女たちの会話は、ほんの少し意地悪なダンスみたいだ。音が音に出会い、おじぎをし、シミーを踊って退場する。別の音が入ってくるが、新しい別の音に舞台の奥へと押しやられ、二つの音がおたがいのまわりをくるくる回り、やがて止まる。言葉は上へ上へと螺旋形を描いてのぼってゆくこともあれば、また、耳障りな跳躍をすることもある。そうして、すべてに──ゼリーでできた心臓の鼓動のような──温かく脈打つ笑いの句読点がつけられる。

追い出されることと、家なしにされることとは違う。追い出されたのなら、どこかほかの場所に行けばよいが、家なしにされたのだったら、行き場所はない。

ちょうど、死の概念と実際に死んでいることとは違っているように。死んでいる状態は変わらないのにたいして、家なしになる恐れは、ここに、いつでもあるからだ。

それからフリーダといっしょになって二人は、シャーリー・テンプルがどんなにかわいいか、情のこもったおしゃべりをした。わたしはシャーリーが大嫌いだったので、しきりに誉めそやす二人の仲間には入らなかった。シャーリーがかわいいから嫌いなのではなく、ボウジャングルズといっしょに踊ったから嫌いなのだ。

母はつらいとき、いやなとき、恋人が去って棄てられたときのことなどを、よく歌った。しかし、母の声はひじょうに甘く、うたっているときの眼はまるでとろけそうだったので、わたしは、そうしたつらいときに憧れ、「自分の評判なんかちいっとも気にしないで」大きくなりたいと渇望した。「わたしの男」から棄てられるすてきなときや、「わたしの男がこの町を出ていった」のがわかるから「夕日が沈むのを見るのがいや」になるときのことを、待ちこがれた。
母の声がうたう緑や青で彩られた不幸は歌の言葉からすべての悲しみを取り去ったので、わたしは、苦痛というものは耐え忍べるばかりでなく、甘美なものだと思いこんだ。

つまづいた歩道の割れ目も、たんぽぽの群れも自分のものだ。
そして、こうしたものを所有していれば、彼女は世界の一部になり、世界は彼女の一部になった。

メリディアン。この名の響きは、讃美歌の最初の四つの音符のように、部屋の窓という窓を開け放つ。

わたしたちは、柔らかな灰色をした家々が、疲れきった貴婦人のようによりかかりあっている並木道を歩いていった

どうして夢が死んでしまうのか、本当のことを知りたかったら、夢みる人の言葉をぜったいに真に受けてはいけない。

彼は、牝馬がお産をするところを一度も見たことがないのにちがいない。牡馬が苦痛を感じないなんて、いったい誰が言うのか。泣き叫ばないからだと言うのか。苦痛を言い表すことができなければ、痛みはないと考えるのか。

彼は、悪に名をつければ、たとえ悪を抹殺することはできなくても、それを無効にすることはできるだろうと思った。

彼は貪欲に本を読んだが、好みのところしか理解しなかった。つまり、他人の考えの切れ端や断片を適当に選んで理解したのだが、それは、その瞬間に自分が抱いている偏見を支持するものに限られていた。
このようにして、彼はオフェリアにたいするハムレットの毒舌を選んで暗記したが、マグダラのマリアにたいするキリストの愛は選ばなかった。

その結果、わたしたちは王者らしくなるかわりに俗物的になり、貴族的になるかわりに階級意識の強い人間になりました。わたしたちは、権威とは目下の者にたいして残酷になることで、教育とは学校に行くことだと信じていました。また、あらあらしさを情熱だと思いこみ、怠惰を安逸とまちがえ、向こう見ずを自由だと考えていました。

正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ、光、告白がなされたときの雰囲気。とにかく、わたしが〝美しさ〟を知ったのは、それが最初だった。
美というものは、たんに目に見えるものではなかった。それは、人が〝美しくする〟ことのできるものだった。
『青い眼がほしい』は、それについて何かを言おうとした努力の結果だった。どうして彼女には自分が持っている美しさがわからなかったのか、あるいは、おそらくその後もけっしてわからないのか、また、どうしてそれほど根本的に自分を変えてもらいたいと祈ったのか、といったことについて何かを言おうとする試みだった。
彼女の欲求の底には、人種的な自己嫌悪がひそんでいた。そして、二十年のちになっても、わたしはまだ、どういうふうにして人はその嫌悪感を学びとるのだろう、と考えていた。誰が彼女に教えたのか。誰が、本物の自分であるより偽物であるほうがいいと彼女に感じさせたのか。誰が彼女を見て、美しさが欠けている、美の尺度の上では取るに足りない重さしかないときめたのか。この小説は、彼女を弾劾したまなざしを突いてみようとしている。

0 件のコメント:

コメントを投稿