
『デイジー・ミラー』
ヘンリー・ジェイムズ
訳 小川高義
新潮文庫
『テヘランでロリータを読む』に出てきたので、そういえばヘンリー・ジェイムズ読んだことがないと思って並行して読みました。
といっても130ページほどの小品なので2、3日で読み終わる。
『テヘランでロリータを読む』によると、「後期のヘンリー・ジェイムズ作品よりは難解ではない」らしいのだけれど、シンプルなストーリーゆえにこれをどう受け取っていいのかわかりませんでした。
美しきデイジー・ミラーは天真爛漫で純粋な娘なのか、それとも下品で愚かな女なのか。彼女はウィンターボーンを愛していたのか、そしてウィンターボーンは?
デイジーを糾弾するのはヨーロッパの社交界。夜遅くに男と遊びまわっているとか、その男がハンサムな弁護士ではあるものの上流階級の紳士ではないというのが主な理由。紳士階級であるウィンターボーンと出歩くのはOKなの?
『デイジー・ミラー』が発表されたのが1878年なので、当時の道徳観だと、デイジーの行動は許されないんだろうなと思いつつ、それを上から目線でジャッジするウィンターボーンの不甲斐なさはどうなんでしょう。彼は自分ならデイジーを救えたと思っているのか。
アメリカ娘であるデイジーもウィンターボーンも、スイスやローマのホテルに滞在して観光やら社交に出歩くだけという上流階級的な過ごし方もうらやましいというよりちょっと不思議。
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以下、引用。
そう言えば、さる皮肉屋の同胞から聞いた話だが、どうもアメリカの女というのは──それも美人というので、この説がもっともらしく聞こえるのだったが──世界一、注文が多くて、世界一、恩知らずなのだそうだ。
紳士たる者が強いて敬意を向けるほどの女ではなくなった。
あのヒロインの名前だけでは何となく平板に思えたのかもしれない。また、彼女の物語自体が言ってしまえば平板なのであって、どこにどう山場が来るというものではない。
しかも扱おうとする題材は、ほとんど取るに足らず、一見して低俗でもある。
この小品は話の展開で読ませようとするものではない、というより遠慮も会釈もなく詩であろうとしている。
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