2026/03/05

『そして誰もいなくなった』

そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫)
『そして誰もいなくなった』
アガサ・クリスティー
清水俊二 訳
ハヤカワ・ミステリ文庫

そして誰もいなくなった (クリスティー文庫)
『そして誰もいなくなった』
アガサ・クリスティー
青木久惠 訳
クリスティー文庫

『そして誰もいなくなった』はアガサ・クリスティーの最高傑作だと思っています。個人的にもっと好きな作品やおもしろいと思う作品はあるけれど、完成度の高さという意味ではやはりこれが一番。

『そして誰もいなくなった』の「改訳新版」が出るということで、いったいどこが改訳されたのか気になっていました。
「改訳新版」(2026年3月発売)の前に出ているのが青木久惠訳、2010年発売のクリスティー文庫版。
こちらでは「インディアン島」が「兵隊島」になり、マザーグースの歌詞、人形も「インディアン」から「兵隊」に変更されています。
「改訳新版」も青木久惠訳なので「兵隊島」は変わらず。

私が以前に読んだのは清水俊二訳「インディアン島」版で、この改変は大きかったと思っています。差別表現なので改訳はしかたなかったとしても、その経緯は明記してほしかった。

日本語訳で「インディアン」が「兵隊」に変わったのは2010年の青木久惠訳からですが、英語原本ではいったいいつから変更されたのか、気になって調べてみたら衝撃の事実が。

1939年、イギリスの初版のタイトルは『TEN LITTLE NIGGERS(十人の小さな黒ん坊)』。島の名前も「Nigger Island」。もっとやばいじゃん。
(私が知らなかっただけで、クリスティーファンの間では有名な話らしいです。)

1940年にアメリカ版が発売されるにあたってタイトルが『And Then There Were None』に変更され、1964年版から島の名前が「Indian Island」になり、童謡の歌詞、人形も変更。
「黒人島」はダメだけど「インディアン島」ならOKと思ったアメリカもすごいけど、なんとイギリスでは1985年まで『Ten Little Niggers』のタイトルが使われていたようです。

「インディアン島」から「兵隊島」に変わった時期ははっきりしませんが、英語版wikiによると1986年版『Ten Little Indians』がこのタイトルが使用された最後となっています。

Amazonで洋書を検索すると、2019年HarperCollins版と2015年HarperCollinsペーパーバック版が「Soldier Island」、2011年William Morrow Paperbacks版が「Indian Island」となっているので、現在でも版によるのかもしれません。

「インディアン島」だけでなく、本文中の表現もいくつか変更されているらしいので、今回、1976年の清水俊二訳と2010年の青木久惠訳を読み比べてみることにしました。
いつの版か不明ですが「Indian Island」版の英文がネットで参照できました。それから2013年のHarperCollins版も図書館で借りました。

『そして誰もいなくなった』は章が細かくわかれているので、ひとくぎりごと、清水訳、青木訳を読んで、あれっと思ったところは英語原文を参照という感じで読んでいきました。
細かい比較は長くなるのでここでは割愛しますが、簡単にまとめると、

⚫︎清水訳
・表紙のタイトルが『TEN LITTLE NIGGERS』! これは当時のイギリス版の原題そのままということだと思います。
真鍋さんの表紙イラストはインディアン。

・あちこちで指摘されているようなのですが、イディオムが訳しきれていなかったり、省略されていたり、あきらかな誤訳が散見。

有名なところでは、
“Indian Island, eh? There’s a nigger in the woodpile.”
「インディアン島か。まきの中にインディアンが一人いる。」
「nigger in the woodpile」は「計画をだいなしにする要因」、「あやしげなこと」という意味。原文は初版の「Nigger Island」にひっかけているのですが、清水訳ではそのまま「まきの中のインディアン」としてしまっている。

青木久惠訳では
「兵隊島だと? いささか、興ざめだな」
となっていて、これは原文が
“Soldier Island, eh? There’s a fly in the ointment.”
と変更されているのにあわせたものなのですが、これも微妙な訳。
「fly in the ointment(軟膏の中の
ハエ)」は「だいなしにする欠点」といった意味。

⚫︎青木訳
・図書館で借りたのは2015年十三刷版。現在のクリスティー文庫の装丁は断崖の海の写真が表紙ですが、この版では真鍋さんイラストのまま。中は「兵隊島」なのに「インディアン」。

・「サマセット」→「イギリス南西部のサマーセット州」のように、いや、その説明いるのかみたいな余計な文章が足されている。

・登場人物たちのモノローグや台詞が全体的に軽い。
「付き合ってみるのも、悪くないなあ……」
島に入ってからもこの調子で緊張感を削ぐ。

・訳としてはまちがいじゃないけれど、「スポーツ・ウーマンの強い力」とか「若い、ピチピチしたほうがいい」とか、なぜこの言葉を選んでしまったんだろうという語彙センス。

・人形を「兵隊さん」とさん付けしているのも不思議。

比較すると硬くてクラシックな清水訳のほうがストーリーにあっているという印象でした。

そしてやっぱり『そして誰もいなくなった』はおもしろい! 今回、新旧訳2冊を通しで読んだわけですが3日ほどで読了しました。
あらすじも犯人もわかっているのにおもしろい。次第に追い詰められていく緊迫感、一人一人消えていく恐怖、そして爽快感さえ感じる美しいラスト。
(『そして誰もいなくなった』は「犯人が誰か」よりも「最後に殺されるのは誰か」が重要だと思うんですよね。この人の罪が一番重いのか!というところで愕然とする。)

新旧訳と英語原文を比較して読んで思うのは、やはりこれは差別用語であったことに意味があるのではないか、ということです。

旧訳でもいくぶん差別感が薄められているのですが、アフリカの原住民たちを見殺しにしたロンバートが「彼らは死ぬことを何とも思っていない。われわれ(ヨーロッパ人)とは違う」と発言する場面があります。
また、ヴィラは「黒人が私たちの同胞だなんて考えられない」と言っています。

『Ten Little Niggers』というタイトルは、自分たちが差別しているものに自分たちが例えられている、という強烈な皮肉だと思うんですよね。黒人であれ、インディアンであれ、人形たちは「殺されてもかまわない」存在とされているわけです。これが「兵隊さん」になってしまうと、だいぶ意味が漂白されてしまう。

また、2010年の青木久惠訳にはあったユダヤ人アイザック・モリスを揶揄する表現が、改訳新版からは消え、「ユダヤ人」ではなく、ただ「男」とされています。これは原文であるHarperCollins版の変更によるものでしょう。
作者が亡くなっているからといってこんなに改編してもいいのだろうか。
(それからなぜか「ベーコンを焼く」が「トーストを焼く」に変更されている箇所がありました。「ベーコン」って何か差別用語なの?)

個人的には解説をつけた上で初版に忠実な訳に戻す方が作品本来の意図にそっているのではと考えます。せめて、改変の経過は説明をつけてほしいなと。