
『カフェの世界史』
増永菜生
SB新書
『アラビアンナイト』(岩波新書)の中に、ロンドンのコーヒーハウスやイスラムのチャイハネが文化の発信地として機能していたことが書かれていたので、そこらへんを知りたくて読んでみました。
ミラノ在住、イタリア史専門、カフェ巡りが趣味という著者が書いた本なので、世界史を軸にコーヒーやお菓子の歴史、各国(イタリア、パリなど、おもにヨーロッパ)のカフェ事情を紹介した内容で、カフェの文化史的なものが読みたかった私にはちょっと違うなあという感じでした。
日本の喫茶店だとコーヒーと紅茶はメニューに並んでるのが当たり前だけど、もともとお茶は中国や日本、アジアの文化発祥のもので、コーヒーはイスラム圏。それが大航海時代でヨーロッパに広まり、コーヒー豆も茶葉も植民地で生産された。そういう歴史を経て、現在のカフェがあるわけだよねというのはちょっと理解しました。
モロゾフの創業者はロシア革命の亡命者だったとか、ユーハイムの創業者は捕虜として日本に連れてこられたドイツ人だったとか、Bunkamuraのドゥ マゴ パリはパリの本店を模したものだったとか、ヴィクトリア&アルバート博物館のカフェ、ウェス・アンダーソンが手がけたカフェは行ってみたいとか、へえーというエピソードも多かったんですが、全体的にエピソード羅列して終わってしまってるのがなんとも。
カフェに対する愛を感じる「あとがき」がいちばん良かったと思います。
以下、引用。
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例えば、パスタやピッツァ、サラダなどイタリア料理の様々なレシピに欠かせないトマトも、大航海時代を経て、新大陸から伝わるまではイタリア半島には存在しないものであった。
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ヨーロッパの国々は16世紀には日本や中国の茶を認識していたとされているが、ヨーロッパ各地域に本格的に喫茶の習慣が根付いたのは17世紀のことだとされている。
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16世紀 カフェハネ(コーヒーハウス)
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1517年、オスマン帝国皇帝セリム1世が、カイロへ進軍し、エジプト・マムルーク朝を滅ぼした際にコーヒーを持ち帰ったとされており、その後、イスタンブールの人々にコーヒーが広まっていった。
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1652年、アルメニア出身(シチリア出身という説もあり)のパスカ・ロゼが、ロンドンで初めてのコーヒーハウスを開いた。このロゼは、商人ダニエル・エドワーズの召使いとしてレヴァントからロンドンにやってきた。ロゼが、毎朝主人のためにコーヒーを淹れていると、物珍しい飲み物にロンドンの人々は集まってきた。エドワーズは、コーヒーを楽しみつつ談笑できる場として、ロゼに店を開かせたのであった。
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またコーヒーと並行して、イングランドでは紅茶に対する熱も高まっていった。特にポルトガルから嫁いできたチャールズ2世の妃キャサリンや、名誉革命を経て王座についたメアリ2世、さらにその後を継いだアン女王は東洋趣味を愛好しており、宮廷や上流階級の間では中国製の陶磁器で楽しむお茶が流行した。上流階級の女性たちは、紅茶やホットチョコレート、バター付きのパンといった内容の朝食をお洒落なティーセットで楽しんだ。
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ザッハトルテをウィーンで考案したホテル・ザッハーは、そのレシピを門外不出としようとした。ところが3代目のエドマンド・ザッハーが、資金援助をしてくれたハプスブル家御用達の菓子店デメルに販売権を渡したことから、後にホテル・ザッハーとデメルは、ザッハトルテの商標権をめぐって裁判で争う事態となった。
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ちなみに、ザッハトルテが生まれるおよそ300年前の1533年、イタリア戦争の真っ最中に、メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシス(1519〜1589)は、フランスのヴァロワ家の王子、オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のフランス王アンリ2世)と結婚した。その際に、イタリアの宮廷文化と共にアイスクリームもフランスの王室に持ち込まれたとされている。
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『傾国の仕立て屋 ローズ・ベルタン』磯見仁月
『イノサン』坂本眞一
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『王妃マルゴ』
アレクサンデル・デュマ・ペール
萩尾望都
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アンシャン・レジーム期のフランスでは、人間の認識や思考力は原罪によって阻まれており、真理に到達することができないために、カトリック教会による導きが必要だと考えられていた。
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『女帝エカテリーナ』池田理代子
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日本の喫茶店でもロシアンティー(ルシアンティー)などという名前で、ジャム入りの紅茶を提供しているところがあるが、ロシアでは、お茶の中にジャムを直接入れることはない。ロシア風ジャムのワレーニエは、お茶とは別になっており、ワレーニエをスプーンで口に運び、お茶を飲むという飲み方がなされる。
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モロゾフを創業したフョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ(1880〜1971)は、ゴンチャロフ製菓の創業者マカール・ゴンチャロフと同じく、1920年代にロシア革命を逃れて日本へ亡命してきた。
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1830年から1834年にかけて首相を務めたホイッグ党のグレイ伯爵(1764〜1845)は、第一回選挙法改正(1832)や救貧法、労働者たちの環境を改善するための工場法(1833)、インドやアフリカのイギリス領も含む大英帝国全体での奴隷制度廃止(1833)など、自由主義的政策を進めた。
ちなみにこのグレイ伯爵は、紅茶の茶葉にベルガモットをブレンドした「アールグレイ」の生みの親でもある。
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ロンドン万国博覧会の総裁に就任し、計画を取り仕切ったのは、ヴィクトリア女王の夫アルバート公であった。
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ヴィクトリア&アルバート博物館
ギャンブル・ルーム
ポインター・ルーム
モリス・ルーム
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日本でも「宮内庁御用達」、「皇室御用達」という商品をたびたび目にするが、実際のところ、この制度は昭和29年(1954)には廃止されている。
161
所々に金を配色した煌びやかな内装と洗練されたサービスで高い評価を得ていたカフェ・ド・ラ・ぺには、作家のエミール・ゾラやモーパッサン、音楽家のチャイコフスキーやジュール・マスネが訪れるようになっていた。19世紀末になると同時皇太子であった後のイギリス国王エドワード7世や小説家のオスカー・ワイルド、さらにシャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイルが訪れるようになっていた。
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なおインスタントコーヒー自体の開発は、それより前であり、1890年にニュージーランドのデイビッド・ストラングがインスタントコーヒーを開発し特許取得後、1899年にシカゴ在住の日本人科学者、加藤サトリが濃縮したコーヒー液を粉末にする技術で特許を取得した。
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アウグスト・ローマイヤーは、収容所から解放された後、帝国ホテルでハム・ソーセージ職人として働き、銀座にてレストラン「ローマイヤー」を開いた。
また青島で菓子販売店と喫茶店を営んでいたカール・ユーハイムも、兵士ではなく民間人であるにもかかわらず、捕虜として日本に連れてこられたドイツ人であったが、製菓技術を伝えると共にバームクーヘンを日本で初めて広めた。
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日本初の喫茶店と言われているのが、東京・上野で1888年に鄭永慶によってオープンした可否茶館(かひさかん)である。
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1911年3月、フランス帰りの松山省三によって銀座にカフェー・プランタンがオープンした。このカフェは、コーヒーや洋酒、軽食を「女給」が給仕する会員制のカフェであり、森鴎外や永井荷風、北原白秋といった文人や芸術家たちが集まった店であった。
同年8月にはカフェー・ライオンが、同年12月にはカフェーパウリスタがオープンし、銀座は他のエリアに先駆けてカフェの街となった。
185
1834年創業 千疋屋
1924年創業 フランス洋菓子店コロンバン
1901年創業 新宿中村屋
1933年創業 珈琲ショパン、茶房きゃんどる
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1932年創業 スマート珈琲
1934年創業 築地
1935年創業 珈琲の店 雲仙
1937年創業 喫茶静香
1940年創業 イノダコーヒー
1934年創業 フランソワ喫茶室
207
日本の複合文化施設Bunkamuraもパリのドゥ・マゴ賞の趣旨を支持し、1990年には日本独自のBunkamuraドゥ・マゴ文学賞が創設された。
なお、その前年にはBunkamura内にドゥ・マゴを模したドゥ マゴ パリがオープンしたが、2023年4月に営業終了。2025年現在、Bunkamura ル・シネマ渋谷宮下内で規模を縮小した形で営業を続けている。
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人々のコーヒー離れを防ぐために、1952年、汎アメリカコーヒー局は「コーヒーブレイク」という習慣を広めようとした。
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ミウッチャ・プラダは、アーティストたちのみならず、映画監督のウェス・アンダーソンとも手を組み、美術館内に1950年代のイタリアをイメージしたカフェであるバール・ルーチェをオープンした。
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第五回パリ万博(1900年)の視察のために諸外国を回った創業者の福原氏により、1902年より資生堂ではソーダ水やアイスクリームが提供されていたが、本格的な西洋料理を提供する場として資生堂パーラーがオープンしたのは、関東大震災(1923年)後の1928年のことである。この頃から洗練された広告や内装が魅力的であった資生堂パーラーは、森鴎外と森茉莉の親子や太宰治、池波正太郎といった文豪たちに愛されてきた。
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