
『本の読める場所を求めて』
阿久津隆
本の読める店『fuzkue』店主阿久津さんの本。
『fuzkue』は説明するのがなかなか難しいのですが、本を読むための環境に特化したお店。
初台店からはじまり、現在、下北沢と西荻窪にも店舗がある。
本を読むための店だから会話は原則禁止。
PCやペンの利用も制限される。
ドリンクや食事のほか変動性の席料があり、だいたい2000円前後の利用料金となる。
この「本が読める店」がどのようにして生まれたのかをつづったのが本書。
ブックカフェは「本のある」カフェであって「本を読む」場所ではない、というのは残念ながらその通り。カフェによっては「本と出会う」場所ですらない。
前半でボロボロに言われているのはBrooklyn Parlorだと思われますが、オシャレなライブハウスか飲み屋みたいなところだから、ひとりで本を読んでいたら居心地がいいわけがない。
基本的にオシャレなカフェはおひとりさまに厳しいのだ。
コロナのおかげで会食が制限されておひとりさまが増えたとはいえ、会話をするためにカフェにくる人は多いので、カフェで落ち着いて本が読めるかどうかは運次第。
(ドトールでよく見かける恋愛目的ではない出会い系?とか、意識高い系サークル?はほとんど私の敵。スタバだと本当に確率が悪い。)
「本が好き」という言い方も昔からあまり好きではなく、「(自分の好きな、興味がある)本を読むのが好き」なのであって本ならなんでもいいわけではない。
ちなみに本の物理的な形とか「本がある空間」はブックカフェも本屋も好き。中野東図書館の壁面本棚は全然あり。
本を読むのが楽しいからやってるんであって、「読書のメリット」とか「頭のいい子に育てる」とか「一流の人の読書習慣」とか聞いても気持ち悪いだけ。
映画やゲーム、手芸など、ほかの趣味では聞かれないのになぜか読書ばかりが特権化される。
そういう今まで感じていた違和感を阿久津さんはじょうずに文章にしてくれる。
「本が読める場所」を求めたことがない人には長々と何を言っているんだかという話かもしれないが、この長さがおもしろいのだ。
(一見、ダラダラと書き綴ってるように見えるが、スルっと読めるのは相当構成されているからだと思う。)
間に収録されているfuzkueの案内書きはそれだけで16ページありますが、これだけでも一読の価値がある。
以下、引用。
本を読んでいる人の姿は美しい。
両手のひらを天に向け、背を丸め、こうべを垂れる。それはほとんど祈りの姿勢のようだ。
100年以上前にどこかの国で書かれた文章が、なにひとつ色あせず、完璧にビビットでアクチュアルなものとして楽しめるなんて、本というのはなかなか、すごいものだ。
僕がどうにか勝てそうな土俵──たとえば「ラテンアメリカ小説のタイトルで山手線ゲーム」とか
本のある風景はとてもいい。本がわーっと並べられた風景を前にすると、安心する。気持ちがほっとあたたまる。同時に、ワクワクと心が躍り立つ。
この「本のある風景はなんか素敵」という意識はおそらく、本を読む読まないに関係なく、それなりに広く共有されているものであるはずだ。
この「本のある風景はなんか素敵」をさらに突き進めると、「もはや本ですらなくていい」にまで行けてしまうことを見せてくれた事例もある。
読書を特権化してはいけない。
読書は楽しい、だからする。
読書は心躍る、だからする。
「語り手の「僕」の暮らしぶりや立居振る舞いがなんだかかっこよく見える」→「その彼は本を読んでいる」→「本を読むのってもしかしたら全然かっこいいこととしてなされうるのかもしれない」→「実際、彼はずいぶん簡単にセックスをしている」→「本を読めば俺もさくっとセックスできるようになる!」
結託の度合いは、ある種の「ポイントシステム」として考えてみると理解しやすい。これは高校時代に学内の序列を可視化しようと考案したシステムが基盤になっている。ポイント化してみると、直感に違わず自分が底辺をうろうろしていることがよく理解できた。
「PRESIDENT Online」の記事(2017年1月6日)によれば、「滞在時間が長い」とされるコメダ珈琲店で平均1時間(ドトールコーヒーショップは30分)
「真紀さんこれからずーっとそういう本読むとしてさ、あと三十年とか四十年くらい読むとしてさ──、本当にいまの調子で読んでったとしたら、けっこうすごい量を読むことになるんだろうけど、いくら読んでも、感想文も何も残さずに真紀さんの頭の中だけに保存されていって、それで、死んで焼かれて灰になって、おしまい──っていうわけだ」
「だって、読むってそういうことでしょ」
保坂和志『この人の閾』
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