2021/11/28

『キングコング・セオリー』

キングコング・セオリー

『キングコング・セオリー』
ヴィルジニー・デパント
相川千尋 訳
柏書房

フランスの女性作家ヴィルジニー・デパントによるフェミニズム・エッセイ。
「私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、「いい女」市場から排除されたすべての女らしさたちのために。」
冒頭からファイティングポーズな文体にしびれます。巻末の著者写真を見ると、彼女は決してブスではなく、その存在感がめちゃくちゃかっこいいんですが、そもそも著者の外見について論じるようなルッキズムくそくらえみたいな本です。
MeToo運動が起こったときに、「男性には女性を口説く権利がある」と反論したのが、かのカトリーヌ・ドヌーヴであったのがちょっとおもしろかったんですが(カトリーヌ・ドヌーヴが口説かれることと、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラはまた別次元の話だと思う)、「女らしい女であること」が賞賛されるフランスにおいて、「女らしさとはご機嫌取りである」と看破してしまう小気味良さ。
文体がパンクなので彼女が攻撃しているのがどちらの側なのかよくわからなかったり、読みにくい部分もあったりしますが、これくらいハッキリ言ってくれると清々しい。
2006年のエッセイ。MeToo運動の高まりを受けてフランスで再注目され、日本でも翻訳出版されました。15年たっても状況はあまり変わってないというか、今なお有効であることが問題なのか。

以下、引用。
強力で精巧な文化装置によって、女の性欲は、自分自身の無力さから快感を得るように運命づけられているのだ。つまり相手の優位から快楽を得るように、あばずれのようにセックスを楽しむのではなく、自分の意に反して感じるように。ユダヤ・キリスト教的な倫理観では、あばずれと思われるよりも、無理やり犯されたほうがいいのだと、私たちは何度も繰り返し教えられてきた。
婚姻は、どんな競争にも負けない価格で、男の安楽のためのいくつもの重労働──特に性労働──を女が提供する市場なのである。
現代のあらゆる通信手段はまずは性の売買に使われる。
売春は「女性に対する暴力だ」と断言するとき、結婚や私たちが耐えている他の物事も女性に対する暴力であるということを、社会は私たちに忘れさせようとしている。
性的妄想は夢と同じような間接的なやり方で、私たちが何者なのかを物語る。私たちはそれが実現してほしいと望んでいるわけではない。
あきらかに多くのヘテロ男性は、ほかの男に挿入されたり、侮辱されたり、女にアナルを責められたりすることを想像して勃起する。同じように、あきらかに多くの女性がレイプや集団レイプ、あるいは女とのセックスを想像して濡れている。
女らしさ満載の「現在の」女たち、『私ってほんとに女だなって思う」と会話のなかで何度も言い、男の性欲と相性のいい性欲をもった女たちこそ、もっとも男性的である。
男性作家について述べるとき、女性作家にするのと同じようにはしない。ミシェル・ウエルベックが美男だと書くべきだとは誰も思わない。もし、彼が女で、彼の本を好きな男がたくさんいたら、美しいと書かれただろう。あるいは美しくないと。
女らしさとはすなわち、ご機嫌取りだ。服従の技法。それを誘惑と呼んで、性的魅力のように見せかけることもある。ほとんどの場合、そんなに難しいことではない。下手にでる習慣を身につければいいだけだ。
「特権とは、そのことを考えるか考えないかの選択肢を持っていること。私は、自分が女であることを忘れることができないが、自分が白人であるということを忘れることができる。それが白人であるということだ」

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