
『紫式部と清少納言が語る平安女子のくらし』
鳥居本幸代
春秋社
「紫式部と清少納言が語る」とは少しオーバーな物言いですが(『光る君へ』脳だと、まひろとききょうが女子トークしそうなイメージ)、『源氏物語』と『枕草子』を通して、平安女子のライフスタイルを解説してくれる一冊。
誕生から袴着、裳着、淑女としての研鑽、結婚。
女御として、女官として、または斎宮、斎院というキャリア。出家。『源氏物語』、『枕草子』のほか、『栄花物語』や『蜻蛉日記』などから紹介されています。
個人的には「裳は巻きスカート」とわかったのがおおっという感じでした。あのズルズル長いの、どうなってんのと思ってたんですよね。
ほかにも、「几帳には隙間があって相手を垣間見ることができる」とかも、そうなんだ!と。
あと、道隆、道長が美形であったのに対し、道兼は「醜い容姿で性格も悪い」と『栄花物語』に書かれているとか。(『光る君へ』の玉置玲央はかっこいい悪役でしたね!)
「桐壺は淑景舎、藤壺は飛香舎」とわかったのも大きい。ずっとどこなんだそれと思ってました。
斎宮と斎院の違いもよくわかりました。
『源氏物語』でいうと、六条御息所の姫君(のちの秋好中宮)が斎宮。六条御息所は娘に付き添って、嵯峨野の野宮、伊勢へと向かうわけですね。
女三の宮と朝顔の姫君が斎院。斎院御所から賀茂川の御禊の場所に至るまでの行列を見るときに、葵と六条御息所の車争いが起きる。
女性の平均寿命が30〜40歳だった平安時代に、倫子が89歳、彰子が86歳、倫子の母、藤原穆子が85歳まで生きて曾孫の敦成親王の即位を見届けたというのもめでたい。
(ちなみに赤染衛門85歳、源明子74歳、藤原賢子83歳とこちらも長寿。)
高階貴子(道隆の妻、中宮定子、伊周の母)は、当時としてはめずらしく結婚よりもキャリアウーマンの道を選択。円融天皇に掌侍として仕え、その漢籍の才能は伊周、定子へと受け継がれ、ひいては中宮定子サロンの『枕草子』、中宮彰子サロンの『源氏物語』へと開花したというのもすばらしい。
『光る君へ』と出版が重なったのは偶然らしいですが、歴史的な人物に加え、『源氏物語』の登場人物もたくさん出てくるので、大河ドラマ見てないと誰が誰やら混乱しそう。逆にいうと、副読本として最適でした。
以下、引用。
18
袴着の儀を行うには誕生の日時をもとに、陰陽師に吉日吉時を占わせることから始まります。誕生の日時は産着に書いておく習慣があり、袴着の日まで大切に保管しておかなければなりませんでした。
ところが、藤原教通の長女生子(五歳)と次女真子(三歳)姉妹の産着が焼失してしまい、誕生の日時がわからないという事態が発生したのです。困り果てた姉妹の外祖父である藤原公任は、何かにつけ几帳面な藤原実資が日記に書き留めていないかと思いつき、問い合わせたところ、期待どおり実資は記録していたのでした。
26
『源氏物語』「絵合」
当日は、左方の斎宮女御にも、右方の弘徽殿女御にも六人ずつの女童が仕え、絵合の進行の手伝いをしました。斎宮女御の女童は赤色の表着に桜襲の汗衫、紅と藤襲の二倍織物(綾地で地紋の上に、別糸で数色の散らし文様を浮織にしたもの)の袙という赤系統の色合いで統一した装束で、かたや、弘徽殿女御のほうは青色の表着に柳の汗衫、山吹襲の袙という青系統の色を用いた装いでした。絵合のような遊戯では、一方が赤系統ならば、他方は青系統の色合いの装束とするのが一般的でした。
27
「若菜下」
女童の出で立ちは、紫の上の女童は赤色の表着・桜の汗衫・薄色(薄紫色)の二倍織物の袙・紅の単・浮紋の表袴、明石の君は紅梅の表着・青磁の汗衫・濃色(濃い紫色)の袙が二人、桜の上着・青磁の汗衫・薄色の袙が二人と赤系統の色目を基調にしたものでした。
明石女御は青色(緑)の表着・蘇芳の汗衫・山吹色の唐の綺(錦に似た金糸や五色の糸を織り交ぜたもの)の袙・唐綾(綾組織の浮織)の表袴、女三の宮は青丹(濃い青に黄色を加えた色)の表着、柳の汗衫、葡萄染(紫がかった赤色)の袙と青系統の色目で整え、唐の綺や唐織など唐から渡来した織物を用いた豪華な装束でした。
30
裳は古墳時代から継承された巻きスカート形式の下半身衣
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中ほどには「几帳のほころび」といって布を縫い合わさない部分があります。その隙間から対面相手を垣間見ることができるのです。
58
平安女子は室内において立て膝、あるいは横座りで座していました。さらに、室内ではむやみに立ち上がって歩行することはタブーとされ、場所を移動するときは膝行(しっこう)、いわゆる膝歩きでした。
65
袿(うちき)の上には、砧で打って艶を出した打衣(うちぎぬ)と豪華な二倍(ふたえ)織物などで仕立てられた表着(うわぎ)が着用されました(打衣も表着も袿と同じ形態)。
81
道隆、道長が美形であったのに対して同母兄弟の道兼については、『栄花物語』「さまざまのよろこび」の巻に「顔色が悪く、毛深く、醜い容姿であった。老獪で男らしいところもあるが、なんとなく恐ろしく感じられるほど、意地悪く、口やかましい。陰険なところがある。長幼の序もわきまえず、いつも兄の道隆を諭しているところもあった」と、醜い容姿に加えて性格も悪いと記され、みなに嫌われていたようです。
106
平安京内裏の中心である紫宸殿の北には、天皇の后たちが住まう後宮の殿舎が連なっています。それらは、承香殿(しょうきょうでん)・常寧殿(じょうねいでん)・貞観殿(じょうがんでん)・麗景殿(れいけいでん)・宣耀殿(せんようでん)・弘徽殿(こきでん)・登華殿(とうかでん)の七殿と、昭陽舎(しょうようしゃ)・淑景舎(しげいさ)・飛香舎(ひぎょうしゃ)・凝華舎(ぎょうかしゃ)・襲芳舎(しゅうほうしゃ)の五舎でした。后の地位が高いほど、天皇の住まいである清涼殿に近い殿舎が与えられ、殿舎の名を冠して承香殿女御、弘徽殿女御などと呼ばれました。
109
内裏の北西と北東にあった五舎で、そのうち、襲芳舎を除く四舎の壺(中庭)に植えられた樹木によって昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝華舎は梅壺との別称がありました。つまり、藤壺中宮は弘徽殿の西にある飛香舎、桐壺更衣は淑景舎でした。
飛香舎は五舎のうち清涼殿にもっとも近く、平安時代中期以降、中宮や有力な女御の局となり、一条天皇の中宮彰子の局となったことは有名です。
淑景舎は清涼殿にもっとも遠く北東の隅にあり、いくつもの殿舎の前にある渡殿(渡り廊下)を通らなければならないところから、実際に女御や更衣が居住した記録は見当たりません。
172
天皇の祖先といわれる天照大神を祭神とする伊勢神宮には、未婚の内親王、あるいは女王が斎宮(さいぐう、「いつきのみや」とも読む)として仕えました。
斎宮は居所である斎宮寮のなかから、日々、伊勢神宮を遥拝し、三時祭と称される六月・一ニ月の月次祭(つきなみのまつり)と、九月の神嘗祭にのみ、伊勢神宮へ赴き、神事に奉仕する潔斎の日々を送りました。
斎宮の決定には、亀卜(きぼく)が用いられました。
斎宮と定められた女性は、ただちに「初斎院」といい、大内裏のなかにある雅楽寮、宮内省、主殿寮(とのもりょう)、左右近衛府などの殿舎を潔斎所として、一年間、心を清め、禁忌を犯さない斎戒生活を送りました。
翌年八月上旬には、京外の清浄な地(平安時代以降は主に嵯峨野)に「野宮(ののみや)」を定め、斎宮卜定から三年目の九月まで、斎戒して伊勢下向に備えました。
斎宮は天皇の崩御、退位のほか、斎宮の近親者の死去などによって「退下(たいげ、任を終えること)」し、都に戻ることが許されました。
176
斎宮は初斎院・野宮での潔斎生活を経て三年目の九月、野宮を出て御禊の後、伊勢の斎宮寮へ群行することになります。
182
以後、伊勢の斎宮に倣って、未婚の内親王、または女王を斎院として賀茂神社に仕えさせました。
『源氏物語』
斎宮
六条御息所の姫君(のちの秋好中宮)
斎院
女三の宮、朝顔の姫君
187
斎院の務め 賀茂祭の主催
祭りに先立ち、中午または中未の日に斎院の御禊が行われます。
『源氏物語』「葵」
斎院御所から一条大路を通って、賀茂川の御禊の場所に至るまでの行列
204
一〇世紀には、老いを自覚すると夫が健在であっても床さりを行い、妻の役割を卒業し、出家するのが一般的だったようです。
205
平安時代の女性の平均寿命 三〇歳〜四〇歳
源倫子 89歳
藤原穆子(源雅信の妻、倫子の母)85歳
曾孫の敦成親王の即位を見届ける
藤原彰子 86歳
赤染衛門 85歳
源明子 74歳
藤原賢子 83歳
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