『死との約束』
アガサ・クリスティー
高橋 豊 訳
ハヤカワ・ミステリ文庫
ポアロシリーズ16作め。1938年の作品。
原題の『APPOINTMENT WITH DEATH』がかっこいい。
新訳版が出ていなかったので、クリスティー文庫ではなく、ハヤカワ・ミステリ文庫で。
1978年の翻訳だからなのか、「異性としての魅力」とか「性別」みたいな言葉を「セックス」と直訳してるのが気になりました。
「辞書の中のもっとも不愉快な言葉でも、平気で人前で使う」という台詞があるので、わざと直訳したのだと思いますが、若い女性に対して使うとジェラール博士がセクハラしてるみたいに見えるんだよなあ。
殺人の舞台はヨルダンのペトラ遺跡。
『メソポタミアの殺人』、『ナイルに死す』に続く中近東シリーズですが、前2作に比べると旅情は薄め。
ペトラ遺跡は岩だらけで山登りばかりしている印象で、「ローズ・レッド・シティ」は「なまの牛肉みたい」と言われています。
エルサレム、ヨルダンという場所がらもあり、通訳のユダヤ人批判がうるさいという描写があったり、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちが現地のベドイン人をこきつかって観光してる感があります。
(べつにこれを批判しているわけではなく、当時はそういう状況だったんだなあと思って読んでいます。クリスティーの描く上流階級の視点はいつも興味深い。)
ミステリ的にはミスリードに引っかからないようにと注意しすぎてミスリードされるところもありましたが、犯人はわかりやすい。『ナイルに死す』に続いて決着のつけ方が気にいらないところもありますが、エピローグは大団円。
◆関連書籍

『死との約束』
アガサ・クリスティー
高橋 豊 訳
クリスティー文庫
以下、引用。
10
そして、かつて聞いた小説家アンソニー・トロロープに関する話を思い起こしながら、ほくそえみつづけた。トロロープが大西洋横断の旅をしていたとき、二人の船客が最近発表された彼の連載小説について論じ合っているのを耳にしたのだった。
「あれはなかなか面白いね」と、一人が意見を述べた。「しかし、あの退屈なおばあさんは殺してしまうべきだな」
小説家はにっこり笑って彼らにいった。
「ご忠告をいただいてありがとうございます。さっそく、あのおばあさんを殺しちゃいましょう!」
16
医学士ミス・サラー・キングは、エルサレムのソロモン・ホテルのライティング・ルームのテーブルのそばに立って、新聞や雑誌のページをぼんやりめくっていた。
17
「今日わたしは、袖のないドレスを着ていたために、ある場所から追い出されちゃったんですよ」と、うらめしそうにいった。「全能の神さまは自分でわたしの腕を作っておきながら、この腕が嫌いらしいんですね」
28
サラーが休憩室を出た後、ジェラール博士はしばらく椅子に座っていたが、やがてテーブルの方へ行って最終版のル・マタンを手に取り、
49
コープ氏は立ちあがった。
「われわれアメリカ人は、絶対的な自由の熱烈な信奉者なのです」
ジェラール博士も立ちあがった。そんな言葉は博士になんらの感動も与えなかった。彼はさまざまな国々の人が同じような言葉を口にするのを、何度も聞かされてきた。自由がある特定の民族だけに許された特典であるかのような妄想が、世界じゅうにひろがっているのだ。
ジェラール博士はもっと賢明だった。いかなる民族も国家も、いかなる個人も、自由とはいえないことを彼は知っていた。だが、不自由の程度に差があることも知っていたのだった。
50
サラー・キングはハラメッシュ・シェリフ寺院の境内に立っていた。彼女の背後に岩のドームがある。噴水の水しぶきの音が聞える。
かつてあるエブス人がこの岩山の山頂に脱穀場を作り、ダビデ王がそれを金貨六百シェケルで買って聖地にしたなんて、おかしな話だと彼女は思った。
61
しかし彼女は、青いサテンの化粧着を着て、小さなアルコール・ランプを取り出してお湯をわかし、キャロルを迎える支度をした。
「いいえ、待っていたのよ。お茶はいかが。ほんもののラップサン・スーションよ」
99
「じっさいのところ、毒殺してしまった方がましな女がたくさんいますよ。年とった醜い女はぜんぶそうです」
「まあ、フランス人はひどいわ! 若くて魅力的な女以外の女には用がないっていうんですからね」
「われわれはそのことについて正直なだけですよ。イギリス人だって、地下鉄や電車で、器量のよくない女のために席を立ったりしませんよ」
107
「文明がまちがってるんだわ。もし文明がなかったら、ボイントン夫人みたいな人間もいなかっただろう。野生的な種族の中では、彼女のような女はとっくに殺されて、食われてしまっていただろう」
101
三人の中で、案内人がいちばん疲れているようだった。彼はアンマンへ行く途中、ほとんど何の説明もしなかった。ユダヤ人について一言もいわなくなった。これはむしろみんなにとってありがたいことだった。エルサレムを出発してからずっと、ユダヤ人の不法行為について、立板に水を流すようにしゃべりまくる彼の冗舌が、みんなの気分をそこなっていたのだった。
104
「さあ、それではまた説明しましょうか」タブーシュ(イスラム教徒の男のかぶるおわん形の帽子)をかぶった通訳がそういって、またユダヤ人の残虐行為について弁舌をふるいはじめた。
113
「すばらしいけど、ちょっと怖いわ」と、サラーはいった。「〝ばら色の町(ローズ・レッド・シティ)〟だなんて、どんなにロマンチックな、夢のようなところだろうと思っていたのですけど、思ったよりずっとリアルで──なにやらなまの牛肉みたい」
114
「みなさんがここへきたがるのです。こんなものを見るために、高い金を払ってくるのです。」
あたり一面に、そして眼下にも、血のように赤い岩がひろがっている──まったく比類のない、奇怪な、信じがたい風景だった。彼らは澄みきったすがすがしい朝の大気の中に神々のように立って、下界を──狂乱する暴力の世界を──静かに眺めた。
121
そう、彼女はレイモンド・ボイントンを愛していたのだ。聖ジョージと竜の話がちょうど逆になっている関係だった。救済者は彼女で、囚われているのがレイモンドだった。
131
「そのまことに巧妙な心理学的推理のほんの一例として──」レイスは彼がシャイタナ殺人事件を解決したいきさつを書いていた。
162
「率直にいって、そうですわ。ポアロさん、あなたはこれがローマン・ホリデー(他人を苦しめて得られる娯楽)にならない自信があるのですか」
206
「聞くところによると、あなたはかつてオリエント急行の殺人事件で、陪審の評決をそのまま承諾なさったそうじゃありませんか」
256
「そしたら、あなたはかの有名な名探偵じゃありませんか! もちろんあたしはABC殺人事件を、はじめから終いまで読みましたよ。すごくスリルがありましたわ。あたしはそのとき、じっさいにドンカスターの近くで家庭教師をしていたのです」
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