2021/12/18

『ジョゼと虎と魚たち』

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

『ジョゼと虎と魚たち』
田辺聖子
角川文庫

「男の家に遊びに行って本棚に何の本があったら嫌か」という上から目線の話をしたことがあったのですが、そのときに「田辺聖子の本があったらちょっといいかも」という意見がありました。
田辺聖子は写真では人の良さそうな大阪のおばちゃんといった雰囲気ですが、小説を読むと相当な恋の上級者。実生活では友人が亡くなったあと、葬式で知り合った友人の旦那さんの後妻になっているので、そこらへんも上級者ぶりが感じられます。
ダメな男を許してしまうダメな女とか、恋愛のだらしないところを「しゃァないな」と受け入れてしまう感じがとてもよい。
六甲のホテルとか、瀬戸内海の海が見える別荘とか、京都の看板の出ていない料亭とか、舞台がずいぶん贅沢なのだが、それが嫌味にならず、「人生のおいしいものを知っている」人に見える。
表題作『ジョゼと虎と魚たち』は犬童一心監督の映画版が有名ですが、私はあまり好きではなく、これが田辺聖子原作?と思っていました。原作はやっぱりだいぶ違って二人のいびつな関係をそのまま描いています。(映画版だとこのいびつな関係にいろいろ理由をつけて「純愛」にしているところが落ちつかない。)
「あたまの悪い男や思いやりのない男に「すてきなセックス」ができるはずはないのだ。」という文章を読むと、やはり男性の本棚にひっそり田辺聖子が置いてあったらちょっといいかもと思う。


以下、引用。
いまでも学校を出て、二、三年しか経っていないような気がする。ただ、店の若い男の子は絶えず入れ替わっており、その子らが年々若くなってゆく気がする。それから流行の映画や音楽、ついこの間のモノのような気がするのが、彼らに、
「古いなあ。それはもう四、五年も前のヒットでっせ」
なんていわれたとき、
(ふーん。ウチもトシなんかなあ)
と思ったりする。
白粉がうまく肌にのったり、晴れた日に新調の靴をおろしてはいたり、碾茶ごはんをほめられたりすると、梢はかなりそれだけで人生が満たされた気がする。
園児たちは黄色い帽子をふりたててのべつ幕なしにさえずり交わしていた。
無垢な少年少女を笑顔とお菓子でおびき寄せては殺していた現代ヨーロッパの性犯罪者たち、──グリム童話にありそうなおそろしい犯罪者たちの、孤独な悦楽が宇禰には少し分かりそうな気がする。
シティホテルで男を釣るなんて、よっぽど仕事も波に乗って充実しているときである。仕事から逃れて純粋に静養したいときは男からも逃げたかった。
女は人に可愛がられるのが幸福なのだ、という神話を、女の子をもつ親は信じていますが、でも女の両手はいつも可愛がるものを求めて宙に差し出されているのではないでしょうか。
(不機嫌というのは、男と女が共に棲んでいる場合、ひとつっきりしかない椅子なのよ……)
(どっちか先にそこへ坐ってしまったら、あとは立っていなければならない椅子とり遊び。自分が坐っちゃいけないのよ)
二人とも不機嫌になることはできない。もし、なったとすれば、それはもう共棲みの関係を解消したときで、まだまだ共棲みしようとすれば、椅子はつねに一つしかないと知るべきである。
梨枝も稔も、ジノリのイタリアン・フルーツのデザインが好きで、紫の木の実や青い花のとんだコーヒーカップと受皿一組が一万三千円するのを、一組、一組、たのしみながら、長いことかかって蒐めて、やっと四組になったところで、稔と離婚する羽目になってしまった。
「悪かったら返すよ、そやけど時計も椅子も、みな馴れてるよって使い易うてな」
一番長く馴れてるのは、八年も結婚してたあたしじゃないの、と梨枝はおかしかった。
そしてジョゼは幸福を考えるとき、それは死と同義語に思える。完全無欠な幸福は、死そのものだった。
私はそんなにたくさんの経験はないが、少しばかりのキャリアから、「すてきなセックス」というのは年齢に限らないと思うようになった。年配者でもへたくそなのはいるし、若くても才能のあるのはおり、想像力やデリカシイの問題でもあるらしい。あたまの悪い男や思いやりのない男に「すてきなセックス」ができるはずはないのだ。
澁澤龍彦『黒魔術の手帳』
〈そんなん、教養やない。ほんまの女の教養いうたら、あんたみたいに、あれが好きな女のことどっしゃん〉
〈いや、女の、やない。人間の教養、いうんかいなあ。じっくり楽しむことのでける余裕が人間の教養や〉
「絵がよろしいように思います。わたし、水彩画の教室へ入って、気ままに画用紙、よごしてます。何も考えへんと遊べますわ」

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