2025/08/26

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
三宅 香帆
集英社新書

説明不要の2024年のベストセラー新書。
本は読めなくともこの本は読めるんかい、と少し冷めた目で見てましたが、売れてる本には理由があったりするので手にとってみました。

新書らしいタイトルは釣り要素が多めですが、実際の内容はまえがきにもあるとおり「近代以降の日本の働き方と読書の関係」。まあ、これがタイトルだと売れないからね。

明治時代から2000年代までの「労働と読書の関係の歴史」は予想以上におもしろかった。

自己啓発本の源流は明治時代にはすでにあったとか、「片づけ本」が「自己啓発書の一種」であると言っているところとか、なるほど。

2010年代以降の「読書がノイズとなる社会」あたりから論がやや急になり、ここらへんはあまり納得できなかった。

かつては自分を向上させるものとして労働に必要だった「教養」は、「情報」だけを搾取したい現在においてはノイズとなるというのは理解できなくもないんだけど、結論が「働いていても本が読める社会」、「ノイズを許容する」、時間的にも精神的にも余裕のある働き方をめざそうという、ごく当たり前のところに着地したのもなんだか。

私が一番本を読んでいたのは、学生時代を別にすると、仕事が最も忙しい時期だったんだけど、あれも仕事の一貫として読書が必要だったから、なんだろうか。

全編にわたってフューチャーされている『花束みたいな恋をした』はずっと敬遠してきたのだけど、そろそろ見てみようかと思う。

最終的に「本が読みたい」テンションは上がったので良しかと思います。
(こういうところ自己啓発本のエナジー効果っぽいよな)


以下、引用

22
近代以降の日本の働き方と、読書の関係
労働と読書の関係の歴史

49
「自己啓発書の流行」というと現代において最近はじまったもののように感じられる。しかしその源流は明治時代にすでに輸入され、「成功」「修養」といった概念とともに日本の働く青年たちに広まっていたのである。

64
「サラリーマン」という言葉が日本に浸透したのは大正後期から昭和初期にかけてのことだった。

76
現代の私たちが持っている「教養を身につけることは自分を向上させる手段である」といううっすらした感覚は、まさに「修養」から派生した「教養」の概念によるものだった。それは大正時代にエリート学生たちの間で生まれた、教養を身につけることによって人格が向上する、というひとつの流行思想だった。

78
『文藝春秋』や『中央公論』等の総合雑誌を読む読者としてサラリーマン層は自らを差異化した。

108
「ベストセラー」という単語が日本で広がったのは、戦後1950年代のことだった。

114
労働者1人あたりの平均年間総実労働時間
1960年 2426時間
2020年 1685時間

129
1971年 講談社文庫
1973年 中公文庫
1974年 文春文庫
1977年 集英社文庫

162
読書や教養とはつまり、学歴を手にしていない人々が階級を上がろうとする際に身につけるべきものを探す作業を名づけたものだったのかもしれない。

178
現代の自己啓発書の一種である「片づけ本」

220
スマートフォンの世帯保有率
2010年 9.7%
2015年 72.0%
2020年 86.8%

226
フリッパーズ・ギターのどこが「教養」らしさを帯びているのかと言えば、「過去」というノイズが存在しているにもかかわらず、その情報にたどり着いたところにある。

233
読書とは、「文脈」のなかで紡ぐものだ。
読みたい本を選ぶことは、自分の気になる「文脈」を取り入れることでもある。

本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちはわかっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。

245
21世紀を生きる私たちにとっての問題は、新自由主義社会の能力主義が植えつけた、「もっとできるという名の、自己に内面化した肯定によって、人々が疲労してしまうこと」なのだ。

新自由主義は決して外部から人間を強制しようとしない。むしろ競争心を煽ることで、あくまで「自分から」戦いに参加させようとする。なぜなら新自由主義は自己責任と自己決定を重視するからだ。だからこそ現代において──私たちが戦う理由は、自分が望むから、なのだ。

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