2025/08/30

『つゆのあとさき』

つゆのあとさき (岩波文庫 緑41-4)

『つゆのあとさき』
永井荷風
岩波文庫

カフェの日本史を調べていると必ず出てくる「純喫茶」ではない「カフェー」。和装に白いエプロンの女給さんというイメージは浮かぶものの、どういう店なのか、女給の仕事はどんなものなのか、風俗営業に近いこともあって具体的には書かれていないので気になっていました。

そこで女給を描いた小説を検索してみたら、真っ先に出てきたのがこちら。1931年(昭和6年)の作品。銀座のカフェーで女給として働く君江が主人公。

永井荷風は初めて読みましたが、解説によると「生涯の大部分を独身で過した荷風は、日本人離れした西欧的合理主義から、定期的な性的欲求を満すためにだけ、常に一定の女性と契約を結んでいた。」ということで、だいぶゲスな生活をしていたようです。

荷風が気に入って通っていたのはカフェー・タイガー。カフェー・パウリスタ、カフェー・ライオンと並んで、カフェの日本史には必ず出てくる名前で、「美人だが素行の悪さでライオンをクビになった女給がタイガーで雇われ、お色気路線の営業をしていた」そうです。

常連だっただけあってカフェー店内の雰囲気がわかりやすく書かれています。
女給は早番だと11時、遅番だと15時出勤。
食事を運んだり、お茶を入れるわけでもなく、客と同席するのが仕事。今のホステスに近い感じですかね。
客は女給目当てで通ってくる人もいれば、商談や買い物帰りで普通に喫茶として利用している人もいたり。
給料がどうなっているのかわかりませんが、基本的には客からもらうチップで稼いでいる。
カフェー自体は喫茶として営業しているわけですが、客と懇意になった女給は誘われれば仕事帰りに客とともに待合へ、というのがパターンのようです。

この「待合」も小説にはよく出てきますが、現存しないのでいまひとつ実体がよくわからないシステム。料理は近くの料亭から運ばせ、食事もできるけど、お風呂が沸いていたり、隣の部屋には布団が敷いてあったり、ほとんどラブホテル的な役割。

『つゆのあとさき』では神楽坂にある待合が出てきます。今でも神楽坂は細い路地の奥に知らない人はたどりつけないような料亭があったりして、色街の名残を感じます。

神楽坂だけでなく、カフェーのある銀座、君江が住んでいる市ヶ谷本村町、松陰神社など、通りや風景が細かく書かれているので、現在の地図と照らし合わせながら、当時を想像してみると楽しい。

主人公の君江は貧しい家に生まれたわけでもないのに、ただふらふらと私娼になり、そのまま女給になり、恋人がいても他の客に誘われるままに浮気する、自堕落な女として描かれています。
実際にカフェーの女給には君江のような女性もいたのでしょうが、荷風自身が恋愛を信じていないようなところがあり、女給を軽く見ている感じもします。
君江だけでなく、彼女のまわりの男性客に対しても一定の距離をおき、誰に対しても共感や同情もなく冷めた目で描いているのがこの小説の特徴でしょうか。

谷崎潤一郎はこの小説を「記念すべき世相史、風俗史」と評しています。特に事件も起こらず、昭和初期の風景を描いただけ、なんですが、それが時代のざわざわ感とともになぜだか心に残ります。

「数寄屋橋の朝日新聞社に広告の軽気球があがっている」という描写があり、あれ?と思ったら、当時は数寄屋橋に朝日新聞本社があり、その跡地に有楽町マリオンが建っているんですね。今はそのマリオンも西武や映画館が閉館してだいぶ変わりました。そういう変化していく風景の一場面を切り取ったような感じがあります。

(102ページ)
疑獄事件で収監される時まで幾年間、麴町の屋敷から抱車で通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人が羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄席の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓するに過ぎない。西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。


以下、引用。

7
 女給の君江は午後三時からその日は銀座通のカッフェーへ出ればよいので、市ヶ谷本村町の貸間からぶらぶら堀端を歩み見附外から乗った乗合自動車を日比谷で下りた。
15
君江はガードの下を通りぬけて、数寄屋橋のたもとへ来かかると、朝日新聞社を始め、おちこちの高い屋根の上から広告の軽気球があがっているので、立留る気もなく立留って空を見上げた時、
18
 松屋呉服店から二、三軒京橋の方へ寄ったところに、表附は四間間口の中央に弧形の広い出入口を設け、その周囲にDONJUANという西洋文字を裸体の女が相寄って捧げている漆喰細工。夜になると、この字に赤い電気がつく。これが君江の通勤しているカッフェーであるが、
30
 明り取りの窓にさしていた夕日の影はいつか消えて、階段の下から突然蓄音機が響き出した。
33
 土手上の道路は次第に低くなって行くので、一歩ごとに夜の空がひろくなったように思われ、市ヶ谷から牛込の方まで、一目に見渡す堀の景色は、土手も樹木も一様に蒼く霧のようにかすんでいる。
35
 本村町の電車停留場はいつか通過ぎて、高力松が枝を伸している阪の下まで来た。市ヶ谷駅の停車場と八幡前の交番との灯が見える。
38
毘沙門の祠の前あたりまで来て、矢田は立止って、向側の路地口を眺め、
 「たしかこの裏だ。君江さん。草履だろう。水溜りがあるぜ。」
50
それとは心づかない君江は広小路の四辻まで歩いて早稲田行の電車に乗り、江戸川端で乗換え、更にまた飯田橋で乗換えようとした時は既に赤電車の出た後であった。
50
 君江はその頃、久しく一緒に住んで共に私娼をしていた京子という女が、いよいよ小石川諏訪町の家をたたんで富士見町の芸者家に住込む事になったので、泣きの涙で別れ、独り市ヶ谷本村町の貸二階へ引移り、私娼の周旋宿へ出入する事をよしていたので、一月あまりの間一晩も男に戯れる折がなかった。
60
 市ヶ谷の堀端へ出る横町は人目に立つので、二人は路地から路地を抜けて士官学校の門前に出で比丘尼坂を上って本村町の堀端を四谷見附の方へ歩いた。
63
 府下世田ヶ谷町松陰神社の鳥居前で道路が丁字形に分れている。分れた路を一、二町ほど行くと、茶畠を前にして勝園寺という匾額をかかげた朱塗の門が立っている。路はその辺から阪になり、遥に豪徳寺裏手の杉林と竹藪とを田と畠との彼方に見渡す眺望。世田ヶ谷の町中でもまずこの辺が昔のままの郊外らしく思われる最幽静な処であろう。
68
鶴子は五年前、年齢は二十三の秋、前の夫が陸軍大学を出て西洋へ留学中、軽井沢のホテルで清岡進と道ならぬ恋に陥ったのである。
その時分進はまだ駒込千駄木町にあった老父熙の家にいて、文学好きの青年らと同人雑誌を刊行していたのであるが、鶴子が離別されると間もなく父の家を去って鎌倉に新家庭をつくった。
74
鶴子は女学校に通っていた時から、仏蘭西の老婦人に就いて語学と礼法の個人教授を受け、また国学者某氏に就いて書法と古典の文学を学んだ事もあったので、結局それらの修養と趣味とがかえって禍をなし、没趣味な軍人の家庭にはいたたまれなかった。
79
「いいえ。そうかも知れませんよ。この頃は芸者が女給さんになったり、女給さんが芸者になったり、全く区別がつきませんからね。」
 「芸者から女給になるのはざらだが、カッフェーから芸者になるのは少いだろう。」
101
 松崎は法学博士の学位を持ち、もと木挽町辺にあった某省の高等官であったが、一時世間の耳目を聳動させた疑獄事件に連坐して刑罰を受けた。
102
疑獄事件で収監される時まで幾年間、麴町の屋敷から抱車で通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人が羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄席の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓するに過ぎない。西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。
君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。
110
君江は一人の男に深く思込まれて、それがために怒られたり恨まれたりして、面倒な葛藤を生じたり、または金を貰ったために束縛を受けたりするよりも、むしろ相手の老弱美醜を問わず、その場かぎりの気ままな戯れを恣にした方が後くされがなくて好いと思っている。
135
それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣な生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前に横っている飯田橋から市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。
139
「おれもあの時分には随分したい放題な真似をしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たら諦めをつけなくっちゃいけない。」
150
生涯の大部分を独身で過した荷風は、日本人離れした西欧的合理主義から、定期的な性的欲求を満すためにだけ、常に一定の女性と契約を結んでいた。
151
それは性的交渉をする相手は、絶対に玄人にかぎり、素人の女性には手をつけない。つまり、女性は金で買うべきであって、同じ階級の女性と対等の恋愛をすることは、罪悪であるという、今日のモラルとは正反対の倫理観を抱いていた。
152
五十歳代のはじめ頃の彼は、中国の古典やフランスの新しい文学に、精神の糧を求めながら、一方で毎日、夕方には外出して、神楽坂の田原屋や、銀座の食堂で食事をとり、定期的に待合で愛人と逢引し、あとは銀座のカフエー・タイガーに通って、文壇人以外の少数の気の合った仲間と、昭和初期の風俗である「カフエー」という娯楽機関と、そこに働く女給たちの生態を観察し、また、往年のフランスの本物のキャフェと、日本のニセモノのカフエーとの異同について、皮肉な意見を交し合って、時を過すようになっていた。
156
この作品に対して、谷崎潤一郎は、やがて雑誌『改造』に批評を発表し、この作品の特徴は、昭和初年の東京を描いた「記念すべき世相史、風俗史」であり、そこに登場する人物に、作者は何の内的な心の繋りを感ぜず、不気味なくらい冷酷で虚無的である、そしてそれが「小説の凄味」となっていると論じ、日本の自然主義にはない、「モウパッサンの自然主義に最も近い作品」と、位置付けた。

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