
『新編 日本の面影』
ラフカディオ・ハーン
池田 雅之 訳
角川ソフィア文庫
岩波少年文庫『雪女 夏の日の夢』に載っていた随筆がとても良かったので、一度ちゃんと読んでみようと思っていたラフカディオ・ハーン。
朝ドラ『ばけばけ』が始まる前にと思っていたのに後追いになってしまいましたが、並走しながら読むと理解が深まります。
原本の『日本の面影』は27編あるそうですが、そこから11編を部分的に訳出したアンソロジーとのこと。
『雪女 夏の日の夢』でも読んでいますが、文章がとても美しいです。松江の朝の風景など、朝靄の描写が印象画のようです。
メモっていても一文がとても長いので、原文はもっと長く、形容詞の多用された難解な文章なんだろうと思われますが、読みやすいく訳されています。
『ばけばけ』視聴者的にいうと、
松江の朝を描いた場面、「水飴を買う幽霊」の話は『神々の国の首都』
「鳥取の蒲団」、「子捨ての話」は『日本海に沿って』に出てきます。
(「鳥取の蒲団」はここでは宿の女中さんから聞いた話となっていますが、八雲の息子さんの手記によると、セツ夫人から聞いた話で、セツ夫人は前夫からこの話を聞いたそうで、えっ、そこ史実だったんだ!という驚き。)
のちの『怪談』のように再話文学としてではなく、随筆の中に挟まれるように怪談が紹介されているのですが、ラフカディオ・ハーンにとって怪談は、日本人の宗教観、文化、精神を理解する上で大切なものだったんですね。
というか、神道や仏教に対する知識や理解が私のはるか上で驚きます。
鶯が「法華経」を唱えているなんて考えたことなかったよ。
(154ページ)
風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直観も、それと共にあるのである。
おそらくセツ夫人と新婚時代に出雲や潜戸に行っているんですが、出雲はわかるとして、子供の幽霊の伝説がある場所に新婚旅行で行く夫婦……。ここドラマでもやってくれるのかな。
『日本の庭にて』は現在、小泉八雲旧居として公開されている武家屋敷(『ばけばけ』ではオープニングに出てきます)の庭の話。
(217ページ)
特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。
石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。
『英語教師の日記から』には「日本の学校には懲罰というものが存在しない」と書かれてるんですがほんとかい? 日本の公立校は『クオレ』に似てるってほんとかい?
『教育勅語』公布の話なんかも出てきて興味深いです。
『さようなら』は松江を去るときの話。
小谷くんのモデルとなった大谷正信くんが中学校代表としてお別れの辞を述べています。
送別会でハーンは「天皇のために死にたい」という生徒の願いを「気高い望み」としつつ、「日本では命を犠牲にするようなことは起こらないだろう」と信じる、そんなときは「国のために死ぬのではなく、国のために生きてほしい」と語っているのも興味深いです。
全体的に日本を高く評価しすぎではないか(ハーンさん盛りすぎではないか)、と思わないでもないですが、西洋人だからこそ見える日本の美しさ、日本人の精神性が記録されていて、これを現代の日本は失ってしまったんだろうか、忘れてしまったんだろかと考えさせられます。
(261ページ)
出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命(さだめ)のような気がする。ことのほか日本では、無常こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。それを思えば、悔やんでも仕方のないことだ。
以下、引用。
7
ところが、日本人の生活の類まれなる魅力は、世界のほかの国では見られないものであり、また日本の西洋化された知識階級の中に見つけられるものでもない。どこの国でもそうであるように、その国の美徳を代表している庶民の中にこそ、その魅力は存在するのである。その魅力は、喜ばしい昔ながらの慣習、絵のようなあでやかな着物、仏壇や神棚、さらには美しく心温まる先祖崇拝を今なお守っている大衆の中にこそ、見出すことができる。
8
さらに、西洋人のより広範な物の見方からすると、たとえどんなに東京などでは軽蔑されていようとも、もっとも大衆になじんだ迷信とは、希望や恐怖や善悪の体験、いうなら霊界の謎を解こうとする素朴な努力の、紙に書かれていない文学の断片として、珍重すべき価値があるのである。
これらを始めたとする数多くの美しい光景は、すべて迷信といわれている想念から生まれ出てくるものであり、その想念が「万物は一なり」という崇高な真理を、きわめて単純な形で繰り返し解いてきた賜物なのである。
9
「人間は、知識よりも幻想に頼る存在なのだ。思索する上で、たいがい批判的で破壊的な理性よりも、全体的にみて建設的な想像力の方が、われわれの幸福に貢献するのではないだろうか。人間が本当に困ったときには、気取った哲学理論よりも、粗野な人でも、危険時や困窮時に思わず胸に握りしめる粗末なお守りや、貧しい人の家にもご加護を注ぎ、守ってくれると信じられている御神像の絵の方が、実際に心を癒してくれるものである。」
レッキー
15
表意文字が日本人の脳に作り出す印象というのは、退屈な、ただの音声記号であるアルファベットの組み合わせが西洋人の脳に作り出す印象と、同じものではない。日本人にとって、文字とは、生き生きとした絵なのである。表意文字は生きているのだ。それらは語りかけ、訴えてくる。そして、日本の通りの空間には、このように目に呼びかけ、人のように笑ったり、顔をしかめたりする、生きた文字が溢れている。
20
認めにくいことかもしれないが、もしかしたら読者が心底ほしいものは、店に置いてある商品ではなく、その店であり、店員であり、のれんも住人もひっくるめた、店々の並ぶ通りである。さらには、町全体であり、入江であり、それを取り巻く山々であり、雲ひとつない空にそびえる富士山の美しい白い頂ではなかろうか。実のところ、魅惑的な樹木、光り輝く大気、すべての都市、町、寺、そして、世界でもっとも愛らしい四千万人の国民も一緒に、日本全体をまるごと買ってしまいたいのだ。
80
実のところ、私も鶯には手が出せないでいた。わが家の可愛い愛鳥は、しばらく床に伏していた一外国人教師の無聊を慰めようと、出雲の知事の麗しき令嬢が気遣って送ってくれた贈り物であった。
107
日本で見る落日は、熱帯で見るそれとは違う。日本の陽光は夢のように穏やかで、その中にはどぎつい色彩は見られない。この東洋の自然の色には、強烈なものを感じさせるものがない。海を見ても、空を眺めても、色彩というより色合いとでも言ったらいいような、霞むようなほのかな淡い色調を感じるだけである。素晴らしい日本の染色を見ればわかるように、この民族の色彩や色合いに対する洗練された趣味には、けばけばしいものがなにもない。それは、この国の穏やかな自然が、落ちついた繊細な美しい色彩を帯びているところに、大きく由来しているからではなかろうか。
111
それにしても、どうして紙を水の流れの中に流すのだろうか。ある天台宗の立派な老僧から教わったところによると、もともとこの儀礼は、水に溺れた死者の霊を慰めるものであったようだ。しかし今では、このように心優しい人々が、地上の水はついには冥界へ流れ落ち、お地蔵様のいる賽の河原を流れてゆく、と信じるようになったからである。
112
川向こうの家では、部屋の中の照明が幅広い障子を柔らかな黄色に染め、その明るい紙のおもてに、すらりとした女の影がしとやかに動いている。私は心から、日本にはガラス窓が普及しないでほしいと願っている。そうなれば、このような美しい影を見ることができなくなるからである。
154
神道を単なる祖先崇拝だとする者もいれば、それに自然崇拝が結びついたものだとする者もいる。
ところが、神道の真髄は、書物の中にあるのでもなければ、儀式や戒律の中にあるのでもない。むしろ国民の心の中に生きているのであり、未来永劫滅びることも、古びることもない、最高の信仰心の表れなのである。
風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直観も、それと共にあるのである。したがって、神道をわかろうというのなら、その日本人の奥底に潜むその魂をこそ学ばなければならない。なにしろ日本人の美意識も、芸術の才も、剛勇の熱さも、忠誠の厚さも、信仰の感情も、すべてがその魂の中に代々受け継がれ、はてには無意識の本能の域にまで至っているのである。
自然や人生を楽しく謳歌するという点でいえば、日本人の魂は、不思議と古代ギリシャ人の精神によく似ていると思う。
184
たしかに、いつまでも人の心をとらえて離さない印象とは、瞬間的なものなのかもしれない。人は時間よりも分単位、分よりも秒単位で憶えているものだ。一日まるごと記憶している者がどこにいよう。人生の中で記憶に残ると幸福な時間とは、そうした瞬間の集結したものだ。
人の微笑みほど、はかないものがあるだろうか。それでも、いったん消え去った微笑みの記憶は、いつ消えることがあろうか。あるいは、その記憶が呼び覚ます、あのやさしい愛惜の思いは、いったいいつになったら消え去ることがあろうか。
217
ここであえて「外庭」と呼ぶのも、日本では大きな屋敷になると、一階と二階の間に「内庭」のある家があるからである。
もうひとつ、特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。少なくとも、理解しようと努めなければならない。石といっても、人の手で切り出されたものではなく、自然の板並みで生まれた自然石のことである。石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。そうでないと、日本庭園の美しさの真髄が心に迫ってくることはないだろう。
259
夏の日射しが奇妙な形をした灰色の石の上に照りつけ、長いこと愛され続けてきた木々の茂みの間から木漏れ陽をちらちらともらし続けている。そんな陽光の中にさえ、亡霊に愛撫されているような優しさが存在している。この庭はもうすべて過去の庭なのだ。そして、未来はこの庭をただ夢として認識することだろう。もはやどんな天才でも再現することのできない、忘れ去られた芸術の結晶として。
261
出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命(さだめ)のような気がする。ことのほか日本では、無常こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。それを思えば、悔やんでも仕方のないことだ。とにかくこの庭の美しさを創り出した、今は失われてしまった芸術は、万物に慰めを与えている経文の一節、「草も木も、また岩も足も、まさに一切涅槃に入るべし」を奉じている宗教が生み出した芸術でもあったのである。
278
子供たちはさっきから、日本の国家「君が代は」と、スコットランドの曲につけた日本の唱歌を二つ習っているのだが、そのうちのひとつ「蛍の光」は、こんな東洋の片隅にいる私の胸中に、数々の楽しい思い出を呼び起こしてくれた。その歌とは、〝Auld Long Syne〟であった。
325
しかも、この名品は、たんなる生徒が教師に示す親愛や忠誠のしるしとしてだけではありません。皆さんの多くが、心からの願いとして天皇陛下のために死にたいと作文に書いた、あの美しい義務感の象徴でもあります。その願いは神聖なものです。皆さんが認識している以上に尊いものです。それは、これから年をとり、経験を積めば、きっとわかることでしょう。
現代は、急速に大きく変化を遂げています。これからの成長過程では、ご先祖の信じてきたことをすべて鵜呑みにするわけにはいかない、と思うことも多くなるでしょう。それでも、先祖の思い出を今なお尊重しているように、少なくとも祖先への信仰だけは忘れないでいてくれることを、心より信じています。ともかくあなた方の周辺で、どんなに新しい日本が変わろうとも、皆さんのものの考え方が時代とともにいかに移り変わろうとも、あなた方が聞かせてくれた、あの気高い望みだけは、どうぞ失わないで下さい。神棚に灯る小さな灯明のように、どうかその心の中にその明かりを、清らかに明々と灯し続けていただきたい。
326
同じように気高く、市民生活の指針ともいえるその願いとは、国のために死ぬことではなくて、国のために生きることです。
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