『冬虫夏草』
梨木香歩
梨木香歩
新潮社
『家守綺譚』の続編。タイトルから勝手に冬にあうかと思って読み始めましたが、夏から秋にかけての物語でした。
友人・高堂の死の真相が次第にあきらかになる緊迫感がそこはかとなくただよっていた前作とは違い、ダァリヤの歌声が流れてきたり、ムジナが祭りにやってきたり、隣のおかみさんの柿の葉ずしが秋を急かしたり、あの世とこの世の堺が曖昧な日常がのんびりと綴られ、これはこれで楽しいと思って読んでいたら、最初の数章でのんびりとした日常が終わり、あとは愛犬ゴローを探す奇妙な旅へと変わります。
能登川駅、愛知川、永源寺、八風街道などの地名は検索すると出てくるので、綿貫の旅路は実際に歩けるものだと思います。
そこは綿貫さんなので河童の少年に会ったり、幽霊に頼みごとをされたりしながらイワナの夫婦の宿をめざします。
この目的のあるようなないような旅が長々と続くので、私的には前半ののんびりとした家守の日々の方が好みでした。
なんといってもゴローを探す旅なので、ゴローの噂や存在感はずっとあるものの、ゴローの不在が寂しい。高堂くんや隣のおかみさん、和尚、ダァリヤの出番ももっと欲しかったところ。
とはいっても、夏目漱石かというような流れるような古めかしい文体は美しく、読んでいて気持ちがいい。
氾濫の多い川沿いの街道だから神社や地蔵が多いという記述がありますが、都内の甲州街道を歩いていても庚申塔や地蔵やらに街道の歴史を感じるので、これはよくわかるなあと思いました。
◆関連書籍

梨木香歩
新潮社
以下、引用。
12
朝方起床、外の様子のあまりに清朗なるに、家中の窓を開け、少し強めになった日差しを味わう。
20
──国境など、あって無きがようなもの。いつでも遊びにおいでなさい。
31
学者の命名というのは、ときに子供じみて他愛のないものが多い。一言相談してくれればいくらでも風雅な名を考えてやるのに、と残念に思う。
45
茶は、ぞんざいではあったが正直な味がした。
51
──秋も老いた。
と呟いた。秋がオータムの秋であることを了解するのに、暫し時間を要した。
──秋も老いるかね。秋が老いたら、冬ということではないのか。
──いや、まだ冬じゃない。秋が疲れているのだ。家の垣根の隅で、野菊の弱弱しく打ちしおれているのに気づいていないか。
72
今まで通ってきたところだけでも、川沿いにはずいぶん神社が多かった。氾濫の多い大河をなだめるためであろう、と推察していた。
73
この川の源は、山脈を奥へ奥へと分け入ったところにある龍ヶ岳。そこから四方へ流れ出る、宇賀川は白竜、青川は青竜、田光川は黒竜、とそれぞれの竜の管轄下になっています。が、この愛知川を守るべき赤竜が、長いこと、もう本当に長い、長いこと、この地を留守にしているのです。
88
──明日は地蔵林の地蔵たちに小豆飯を配る日でした。
──昔から、大水が出た後の飢饉の折には、子たちがようけ、亡うなりましたのでね。
92
左、桑名と大書きされた下に、小さく山上、永源寺とある。これこの左の道が八風街道だ。山上、永源寺を経て、やがて伊勢側に山を越すと桑名に至る。たしかにそうだが、永源寺と桑名の間は、萱尾、蓼畑、黄和田、杠葉尾、等等、が控えている。これでは省略のし過ぎであると思うが、道標というのは得てしてそういうものである。というのはこの街道をたどるうち、しみじみと思い知った。近くをまず記し、見当をつけさせ、ついで遥かに遠望して一日では到底達し得ないようなこの道の「行き着く先」を教示する。この遠近の距離感が、旅人に旅人たる覚悟を促すのである。
93
古い街道というものは皆、語り継がれぬそのような無惨な死を幾千幾万と畳み込んでいるものなのだろう。
104
見れば、カエデの二寸程のものは、私の小指の爪程の大きさ程しかあらぬ葉であるのに、すでに紅葉を始めている。変化はまこと斯くの如く、小さきものから始まるのだ、と感嘆する。
105
だが私はそもそも、山を見てあれに登りたいと思うような質ではなかった。山は山、己は己である。山は山として放っておいてやればいいではないか。いちいち踏破したくなるのは無駄な征服欲というものである。そういう余剰の力があるならもっと有効に活用すればよろしい。登山部の友人の話を聞くたび、心の隅ではそう思っていた。
109
これもまた、縁であろうから、と思い、おっと、「縁」は仏教用語か、いやいや、維新後の神仏分離令などより神仏習合の歴史の方がよっぽど古くて長いのだから、
128
ほころぶ前のススキの穂は固く締まり、朝練を受ける生真面目な少年少女のようだ。
166
──追い出したりはしないのですか。
──みな、河童やな、イモナやな、てわかるけんど、河童に生まれたりイモナに生まれたり、ひとに生まれたりは、わしら、選べへんもん。振る舞いの握り飯とかも、ほいで、みな、余計に来てもいいように余分につくるようにしとるはずや。
192
人生とは一幕の幻のようなものなのかもしれぬ。山のなかに、子どもが走り回り、おまわりが笑っている、そういう町が現れ、また忽然と消える。
242
しかし竜宮で饗応に与るとならば、としばし考えた。鯛やヒラメの舞い踊りのほか、料理は何であったのか。どう考えても、これは刺身や塩焼きであったような気がする。海藻だけで馳走とはいくまい。牛のすき焼きが出たとも思えなかった。竜宮で供されるのは魚料理。それがまかり通るならば、イワナの夫婦がイワナを晩飯に出してもおかしくはないということだろうか。
258
──なに、それは生物一般に云えることではないでしょうか。そのときどき、生きる形状が変わっていくのは仕方がないこと。それはこういう閉ざされた村里に住む人びとでも同じことです。人は与えられた条件のなかで、自分の生を実現していくしかない。
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