
『珈琲の世界史』
旦部 幸博
講談社現代新書
『カフェの世界史』が物足りなかったので、そちらで紹介されていた『珈琲の世界史』を読んでみました。
・エチオピアからイエメンへ、紛争から逃れた人々がコーヒーの伝播に関わっていたのではないかという説
・イスラーム圏からヨーロッパへのコーヒー伝播ルート
・ボストン茶会事件はアメリカ独立だけでなく、紅茶からコーヒーへの転換となった
・イエメンのコーヒーノキの苗木や種子は密かに盗み出され、世界各地で栽培が始まる
・イエメンのモカ港は現在は廃墟となり、ブランド名の「モカ」が残っている。
・コーヒーの増産を支えたのは植民地や奴隷制
・奴隷解放後、ブラジルのリオのコーヒー栽培は破綻し、サンパウロは移民による労働力で栄えた
・さび病によってスリランカのコーヒー栽培は崩壊し、廃農園をリプトンが紅茶栽培に転換した
・ブラジルとアメリカのコーヒー価格をめぐる争い
・「コモディティコーヒー」の品質低下に対する「スペシャルティコーヒー」の誕生
・スターバックスに対するアンチテーゼとしての「サードウェーブ」
などなど。
コーヒーの歴史とは略奪の歴史であり、イギリス、フランスなど先進国のコーヒーブームを支えたのは植民地だったという史実がなかなか重い。大航海時代がなかったら、現代までコーヒーが飲まれることもなかったのかも。
ブラジルとアメリカの市場経済がコーヒー豆の品質を低下させるとともに、スペシャルティコーヒーを産み出したというのも興味深い。
特に、日本のコーヒー文化が独特で、「味にこだわる一杯淹て」が世界的にもめずらしいものだったというのがおもしろかったです。
以下、引用。
73
カフェハネは基本的に男性の集まる場所であり、この当時の女性同士の交流の場は公衆浴場(ハンマール)だったそうです。この「アルコール禁止・男性だけ」というルールは、カフェハネをモデルにした、イギリスのコーヒーハウスにも踏襲されています。
75
オスマン帝国の首都イスタンブルでコーヒーが本格的に普及したのは、1554年に2人のシリア人、ハキムとシャムスがカフェハネを開いたのがきっかけだと言われています。
円筒形の手回し式焙煎機やコーヒーミルなどのコーヒー専門器具も、この時代のイスタンブルで考案されたと言われており、その後のコーヒー文化や技術の発展に大きな影響を与えました。
89
恩賞として、金と家、そして敗走したオスマン兵が塹壕に残していた大量のコーヒー豆をもらったコルシツキーは、ウィーン初のカフェ「青い瓶の下の家(ホフ・ツア・ブラウエン・フラシェ)」を開いたという物語です。
「青い瓶の下の家」は彼の死後まもなく無くなりましたが、この逸話から名前を取ったのが、アメリカの「ブルーボトル・コーヒー」なのです。
92
イギリス初のコーヒーハウスは1650年にジェイコブというユダヤ人が、オックスフォードで開いた店だと言われています。ただしこの店は長続きせず、本格的な流行は1652年にアルメニア出身のパスカ・ロゼがロンドン初のコーヒーハウスを開いてから。
94
イギリスのコーヒーハウスは、イスラーム圏のカフェハネがモデルの、(少なくとも流行初期は)酒を出さない店でした。じつはイギリスの人々にとって、はじめての「素面で語り合える」飲食店だったのです。
98
1672年にアルメニア人パスカルが、サン・ジェルマンの定期市でオリエント風のコーヒー店を出したのが、パリ最初のコーヒー店だと言われています。
157
20世紀になってから、タンザニアとケニアの境にあるキリマンジャロ山の南麓、モシ地方で栽培されたコーヒーが、有名な「キリマンジャロコーヒー」のルーツです。日本では、1953年に公開されて大ヒットした、ヘミングウェイ原作の映画『キリマンジャロの雪』がきっかけで、一大ブランドになりました。
159
スリランカはさび病に蹂躙されて、コーヒー栽培を断念することになりました。その後、1890年に廃農園を訪れたトーマス・リプトンが自社で販売する紅茶を栽培することを思いつきます。スリランカが紅茶の産地として有名になったのはここからです。
160
1860年、植民地官吏だったダウエス・デッケルが「ムルタトゥーリ」の筆名で著した小説『マックス・ハーフェラール』で現地の惨状を訴えると、オランダ本国で強制栽培に対する反対世論が高まります。
現在「フェアトレードコーヒー」を認証しているマックス・ハーフェラール財団(1988年設立)の名前は、この小説から採られたものです。
171
1917年、連合国側で参戦したアメリカからヨーロッパに赴く兵士たちに、グアテマラ在住ベルギー人、ジョージ・ワシントンが考案したインスタントコーヒーが支給され、手軽さが受けて戦場で愛飲されます。
なおアメリカ初のインスタントコーヒーの特許は、シカゴ在住の日本人化学者、カトウ・サオリが、ジョージ・ワシントンより先に取得しています。
174
ブラジル政府はスイスのネスレ社に長期保存可能なインスタントコーヒーの開発を依頼しました。その後、8年の歳月をかけて完成したのが「ネスカフェ」です。
178
この消費者離れを食い止めようと、1952年、汎アメリカコーヒー局が宣伝のために作った言葉が、「コーヒーブレイク」なのです。
192
1888年、上野黒門町で鄭永慶という人物が開業した「可否茶館」が最初とされます。上流階級の社交場であった鹿鳴館に対抗して庶民の社交場を目指し、文房具室やビリヤード、トランプ、クリケット場まで備えた、欧米最先端のカフェさながらの先進的な店でした。
193
1911年3月、こうした文人たちの活動から生まれたのが銀座の「カフェー・プランタン」。
194
1911年12月開業したのが「カフェー・パウリスタ」。ブラジル移民の父と呼ばれた水野龍が開いた店です。
皇国殖民会社の社長だった水野はサンパウロ州政府から、日本からの移民の輸送に貢献した見返りに、コーヒーの無償提供を受けることになりました。
197
銀座のカフェー・ライオンの近くには「カフェー・タイガー」という店が開店し、美人ながらも素行の悪さでライオンを首になった女給が雇われて、お色気路線の営業が行われます。
198
健全路線の店、特に変な客が寄り付くことを避けようとした店は、もともと洋菓子店や台湾喫茶店が用いていた「喫茶店」を名乗るようになりました。1925年頃には、酒や女給を置く「カフェー」、これらを商わない「普通喫茶店」、そして中間的な「特殊喫茶店」という分類があったようです。
199
1930年代に日本で最初の喫茶店ブームが到来しました。この時期、1929年からの世界大恐慌でコーヒーの原料価格が低下していたことも後押しして、酒や女給を置かない喫茶店ではコーヒーがそのメニューの中心でした。このような喫茶店が1930年前半には「純喫茶」と呼ばれるようになります。
201
戦前から風俗店化していた「カフェー」のほうは、GHQによる公娼制度廃止時に多くの遊郭がカフェーや料理店に看板を付け替えたことでそれらと同一化していき、1957年の売春防止法施行でその幕を閉じました。
204
1981年にその数は個人、法人を併せて全国で15万軒を超えました。うち13万軒が個人事業主によるものです。日本で最大の喫茶店ブームの頂点にして「黄金期」と呼ぶにふさわしいのがこの時代です。
喫茶店数の急増は激しい競争を生み、一部の喫茶店主は「コーヒーのおいしさ」で他店と差別化しようと考えました。彼らが最初に力を入れたのは抽出です。ペーパードリップやネルドリップ、サイフォンなど、それぞれ自分の店に合った抽出技術に磨きをかけ、たくさんの銘柄のコーヒー豆を常備して、注文を受けるたびに1杯分ずつ抽出して提供する、いわゆる「一杯淹て」が常態化していきました。
このような「コーヒー自体のおいしさを売りにする専門店」が流行するのは、じつは歴史的に見て、とても珍しいことでした。
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サイフォンはもともと1910年代にアメリカで大流行したのですが、とっくに廃れてしまって、器具を作りつづけていたのは日本のガラス器具会社、HARIO社などの数社だけ。そこで日本のコーヒー抽出器具がアメリカ向けに販売されるようになったのです。
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世界からの日本への注目は、2012年、メリー・ホワイトの著書『Coffee Life in Japan』で、日本独自のコーヒー文化と喫茶店が紹介されたことで、ますます高まっています。
なかでも、この本で紹介されたダッチコーヒー(滴下式の水出しコーヒー)は「キョート・コーヒー」や「コールド・ブリュー」の名で2015年頃からアメリカで流行し、新しいトレンドとして世界に広まっています。
90年代初頭に創業
堀口珈琲(世田谷)、丸山珈琲(軽井沢)
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