
『新版 枕草子』下巻
清少納言
石田穣二 訳注
角川ソフィア文庫
約1ヵ月かかって下巻読了。
あらためて読んでみると、1000年前の作品を注釈付きとはいえ原文で読んでもなんとなく意味がわかり、共感できるって日本語すごいし、清少納言すごいなあ。
「春はあけぼの」の冒頭もそうですが、
たとえば、
〔二五〕にくきもの
新参の女房が、古参の人をさしおいて、いかにも事情に通じたような顔つきで、新しく来た女房に教えるようなことを言い、なにかと世話を焼くのも、ひどくにくらしい。
あけて出はいりする所を、しめない人、ひどくにくらしい。
〔二六〕心ときめきするもの
髪を洗い、お化粧をして、かおり高く香のしみた着物など着た時の気持。そういう時は、別段見る人も居ない所でも、自分の心の中だけはやはりはずんだ気持になる。
約束の男を待っているような夜は、雨の音や風の建物を吹きゆるがす音にも、はっと胸の騒ぐものである。
〔二七〕過ぎにしかた恋しきもの
去年使った夏扇。
〔三〇〕
説教の講師は、美男子なのがよい。夢中になって、ひたと講師の顔を見守っておればこそ、その説き聞かせる仏法のありがたさも感得できるというものだ。
現代で読んでも、あー、わかるわかると思うものなあ。
そして昔読んだときは人物関係がよくわかっていなかったのですが、中宮定子はもちろん、道隆や伊周についても賛辞を惜しまず描写されているんですね。
雪の降り積もった日に訪ねてきた伊周に
定子「雪で道もないと思いましたのに、どうしてまあ」
伊周「殊勝なものと、御覧くださるかと思いまして」
というやりとりは
「山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとは見む」の和歌をふまえてるんですね。なんて知的おしゃれ。しかも伊周が着ているのは紫の指貫。「雪に映えて見事」と書かれています。
「この世から消えてしまいたいというときでも、上質の紙が手に入ると気分がなおって、生きていてもいいかなと思います」と清少納言が言ったのを覚えていて、里下りしている清少納言に中宮が上質の紙を贈ってくれたエピソードとか。
そうやって読むと『枕草子』とは滅びゆくものに捧げられた文学であり、それが1000年の時を超えて心に響くのだなあと思います。
(393ページ)
月の明るいのをながめるくらい、遠く遥かなことが思われて、過ぎ去ったことの、情けなかったこともうれしかったことも、趣深いと思われたことも、たった今のことのように思われる時がほかにあろうか。
◆関連書籍
以下、引用。
270
しかし、女房の衣裳も、裳や唐衣が時節にぴったりしていて、さすがにきちんとしたたたずまいでおそばにはべっていたことでした。御簾のわきの隙間から室内をのぞいたところ、八、九人ほど、朽葉の唐衣、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、とりどりの美しいよそおいでずらっとはべっていたことでした。
279
いつもの所でない所で、特にそれも、世間に隠して公然の関係ではない恋人の声を聞きつけたときは、どきどきするのも当たり前だが、ほかの人が、その人のことを話題にのぼせたりするにつけても、まず、どきどきするものだ。
292
女房たちが、男の人と親しくすることを、碁にたとえて、仲むつまじくなったりしたのを「置き石を許してる」あるいは「寄せも終った」などと言い、男の場合には「石を置かせていただきましょう」などと隠語を使って
すっかり隔てのなくなった仲を「あれは、もう石を崩すところまで行ってる」などと言う。
309
殿様ではなく、大納言が参上なさったのであった。御直衣、指貫の紫の色が、雪に映えて、たいそうお見事だ。柱のところにお座りになって、(伊周)「昨日、今日、物忌でしたが、雪がひどく降りましたので、御身辺が気がかりで──」と申し上げなさる。(宮)「雪で道もないと思いましたのに、どうしてまあ」と挨拶なさる。と、お笑いになって、(伊周)「殊勝なものと、御覧くださるかと思いまして」などとおっしゃる、気の利いたお二人のやりとりは、これよりすばらしいものがこの世にあろうか、物語にただもう口から出まかせに書き立てた主人公たちのすばらしさと寸分も違うところもないようだと思われる。
「山里は雪降り積みて道もなし今日来む人をあはれとは見む」兼盛
328
五月の長雨のころ、上の御局の小戸の簾に、斉信の中将の寄りかかっていらした香は、ほんとうにすばらしかったことだ。なんの薫物の香だったかわからず、大体が雨のしめりけで香も一段とたちまさってすてきなふうだったが、こんなこと、珍しくもないことだけれども、どうして書かずにおられようか。翌日まで御簾に移り香がしていたのを、若い女房たちがまたとなくすばらしいと思っていたのも、至極当然のことではある。
365
うれしいもの
陸奥紙、普通の紙でも、上等なのを手に入れた時。
367
「世間のことが腹立たしく、むしゃくしゃして、片時もこの世に住みたくなく、ただもうどこでもいいからどこかに行ってしまいたいと思うときに、普通の紙の真白できれいなのに、上等の筆、白い色紙、陸奥紙などが手にはいると、もうすっかり気分がなおって、ままよ、このまましばらく生きていてもいいなという気になります。」
それから後、しばらくたって、ほんとうに真底から思い悩むことがあって、里にさがっていたころ、中宮から、すばらしい紙二十枚を包んで御下賜になった。
370
関白様が、こちらにいらした。青鈍の固紋の御指貫、桜がさねの御直衣に、紅のお下着三領ほどをじかに御直衣に重ねてお召しになっていらっしゃる。中宮をはじめとして、紅梅の濃い薄い織物、固紋、無紋などを、おそばにはべっている女房皆が着ているので、部屋中ただもう派手やかに美しい。唐衣は、萌黄、柳、紅梅などもある。
372
宮はお手紙を御覧になる。御返事を紅梅の薄葉にお書きになるのが、御召物の同じ紅梅の色によくうつってぴったりなのだが、こうした中宮の御配慮までをも御推察申し上げる人は、お前にはべっている私たちのほかにはあるまいと思われるのが、残念でならない。
380
女院のお車ともに全部で十五、うち四つは尼の車。先頭の御乗車は唐庇の車である。それに続いて尼の車、車の前後から水晶の数珠、薄墨色の裳、袈裟、衣裳がたいそうすばらしくて、簾は上げてない。下簾も薄紫色の裾のすこし濃いのである。次に女房の車が十。桜がさねの唐衣に、薄紫色の裳、濃い紅の内着、香染めや薄紫色の表着が、とても上品に美しい。日はとてもうららかであるが、空は青く霞みわたっているのに、女房の衣裳がよくうつりあって、趣向をこらした織物やいろんな色の唐衣などよりも、上品で優美なことこの上もない。
382
まだ御裳、御唐衣をお召しになったままでいらっしゃるのが、すばらしい。紅の内衣、なみ一通りであろうか。中に唐綾の柳がさねの袿、表着は葡萄染めの五重襲の織物に、赤色の御唐衣、地摺の唐の薄物に象眼を重ねた御裳などをお召しになって、その御召物の色などは、普通のものにくらべようもなくまったくすばらしい。「今日の私の様子は、どう」と、おおせになる。
387
けれども、あの日すばらしいとお見上げ申し上げた中宮はじめ御一家の御栄華も、現在の御状態と御比較申し上げるに、もうまったくの違いようでお話にもならないので、気がめいって、いろいろたくさんあったこともみな書きもらした。
393
月の明るいのをながめるくらい、遠く遥かなことが思われて、過ぎ去ったことの、情けなかったこともうれしかったことも、趣深いと思われたことも、たった今のことのように思われる時がほかにあろうか。


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