2021/11/28

『キングコング・セオリー』

キングコング・セオリー

『キングコング・セオリー』
ヴィルジニー・デパント
相川千尋 訳
柏書房

フランスの女性作家ヴィルジニー・デパントによるフェミニズム・エッセイ。
「私はブスの側から書いている。ブスのために、ババアのために、男みたいな女のために、不感症の女、欲求不満の女、セックスの対象にならない女、ヒステリーの女、バカな女、「いい女」市場から排除されたすべての女らしさたちのために。」
冒頭からファイティングポーズな文体にしびれます。巻末の著者写真を見ると、彼女は決してブスではなく、その存在感がめちゃくちゃかっこいいんですが、そもそも著者の外見について論じるようなルッキズムくそくらえみたいな本です。
MeToo運動が起こったときに、「男性には女性を口説く権利がある」と反論したのが、かのカトリーヌ・ドヌーヴであったのがちょっとおもしろかったんですが(カトリーヌ・ドヌーヴが口説かれることと、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラはまた別次元の話だと思う)、「女らしい女であること」が賞賛されるフランスにおいて、「女らしさとはご機嫌取りである」と看破してしまう小気味良さ。
文体がパンクなので彼女が攻撃しているのがどちらの側なのかよくわからなかったり、読みにくい部分もあったりしますが、これくらいハッキリ言ってくれると清々しい。
2006年のエッセイ。MeToo運動の高まりを受けてフランスで再注目され、日本でも翻訳出版されました。15年たっても状況はあまり変わってないというか、今なお有効であることが問題なのか。

2021/11/10

『本の読める場所を求めて』

本の読める場所を求めて

『本の読める場所を求めて』
阿久津隆

本の読める店『fuzkue』店主阿久津さんの本。
『fuzkue』は説明するのがなかなか難しいのですが、本を読むための環境に特化したお店。
初台店からはじまり、現在、下北沢と西荻窪にも店舗がある。
本を読むための店だから会話は原則禁止。
PCやペンの利用も制限される。
ドリンクや食事のほか変動性の席料があり、だいたい2000円前後の利用料金となる。
この「本が読める店」がどのようにして生まれたのかをつづったのが本書。
ブックカフェは「本のある」カフェであって「本を読む」場所ではない、というのは残念ながらその通り。カフェによっては「本と出会う」場所ですらない。
前半でボロボロに言われているのはBrooklyn Parlorだと思われますが、オシャレなライブハウスか飲み屋みたいなところだから、ひとりで本を読んでいたら居心地がいいわけがない。
基本的にオシャレなカフェはおひとりさまに厳しいのだ。
コロナのおかげで会食が制限されておひとりさまが増えたとはいえ、会話をするためにカフェにくる人は多いので、カフェで落ち着いて本が読めるかどうかは運次第。
(ドトールでよく見かける恋愛目的ではない出会い系?とか、意識高い系サークル?はほとんど私の敵。スタバだと本当に確率が悪い。)
「本が好き」という言い方も昔からあまり好きではなく、「(自分の好きな、興味がある)本を読むのが好き」なのであって本ならなんでもいいわけではない。
ちなみに本の物理的な形とか「本がある空間」はブックカフェも本屋も好き。中野東図書館の壁面本棚は全然あり。
本を読むのが楽しいからやってるんであって、「読書のメリット」とか「頭のいい子に育てる」とか「一流の人の読書習慣」とか聞いても気持ち悪いだけ。
映画やゲーム、手芸など、ほかの趣味では聞かれないのになぜか読書ばかりが特権化される。
そういう今まで感じていた違和感を阿久津さんはじょうずに文章にしてくれる。
「本が読める場所」を求めたことがない人には長々と何を言っているんだかという話かもしれないが、この長さがおもしろいのだ。
(一見、ダラダラと書き綴ってるように見えるが、スルっと読めるのは相当構成されているからだと思う。)
間に収録されているfuzkueの案内書きはそれだけで16ページありますが、これだけでも一読の価値がある。


2021/11/07

『魔女街道の旅』

魔女街道の旅

『魔女街道の旅』
西村佑子
山と渓谷社

ドイツに残る魔女迫害の歴史跡を訪ねる一冊。「魔女狩り」をテーマにした本を何冊か読んでいるので興味深く手に取ってみました。
元が『ドイツ魔女街道を旅してみませんか?』(トラベルジャーナル)という旅行ガイド的な本だったらしく、著者は魔女の歴史についてもだいぶ調べているようなのにそこらへんの考察が弱く物足りない。
元のガイドブックにはあったのかもしれませんが、写真や詳細な地図もないのでガイドブックとしても物足りない。
魔女の館や慰霊碑などを訪れた感想もブログのコメントの域を出ておらず、ここらへんももったいない気がしました。
ドイツのあちこちに魔女とされた人々のための慰霊碑が建てられていたり、近年になって名誉回復がはかられているというのは初めて知ったので収穫でした。
地域振興目的とはいえ、ヴァルプルギスの夜祭りが復活しているのもおもしろい。魔女はいまや観光資源なんですね。
冒頭の『ヘンゼルとグレーテル』の魔女は本当に悪い魔女だったのか、という疑問は私も感じていたので、著者だけでなく、ドイツの作家にも同じ違和感をもつ人がいるというのは共感しました。
著者は意図的に「魔女狩り」という言葉を使わず、「魔女迫害」としているようなのですが、これはなぜなんだろう。
最終章の児童文学における魔女や「薬草魔女」など、現代の新しい魔女についての話はなかなかおもしろいです。
そもそも日本語の「魔女」とは外来語で、もとは必ずしも女性だけを意味するものではなかったとか、「魔女」といえば反社会的なものであり、いい魔女は存在せず、悪い魔女だけが魔女だったというのは再発見。
「現代の魔女狩り」とはネットのいじめなどをさしてよく使われる言い回しですが、アフリカなどでは現代でも魔女と名指しされた人が私刑で殺害されていたりするので、魔女とは何か、魔女狩りとは何かは今後も追いかけていきたいテーマです。

2021/10/19

『ケルト 再生の思想』

ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環: ハロウィンからの生命循環 (ちくま新書)

『ケルト 再生の思想 ハロウィンからの生命循環』
鶴岡真弓
ちくま新書

ハロウィンってなんでカボチャなんだろう。メキシコの死者の日とも似てるよね、と思っていたところ、@ westmountainbooksさんがこちらを紹介していたので読んでみました。
ハロウィンはもともとケルトの祭サウィンが起源で、11月1日を境に「光の半年」から「闇の半年」へと移行し、前夜である10月31日には光と闇、あの世とこの世、生と死が混ざり合う、という冒頭からもうワクワク。
冬の祭サウィン(11月1日)から始まり、春の祭インボルク(2月1日)、夏の祭ベルティネ(5月1日)、秋の祭ルーナサ(8月1日)とケルトの4つの季節祭をとおして、一年のサイクルと循環する生命の思想が解説されていますが、「帰ってくる死者を供養する」のは日本のお盆と同じで、そのほか、お正月飾りやナマハゲやら日本とケルトの民間伝承に近いものがあるのがおもしろいです。
自然崇拝が根底にあり、農業を中心とした暦だから基本的な思想が似てくるのか、なんだかすごく共感できる。ケルトをとおして日本的な考え方を再発見します。
おもしろすぎて引用が長すぎますが、エンターテイメント化してしまったハロウィンの原点を知ることのできる良書です。

2021/10/18

『クララとお日さま』

クララとお日さま

『クララとお日さま』
カズオ・イシグロ
土屋政雄 訳
早川書房

ノーベル文学賞受賞後第一作ということで注目されたカズオ・イシグロ最新作。
読む前から「AIロボットと少女の友情」という前情報は否応なく流れてきたわけですが、今回の語り手クララがAIロボットであるという「説明」はクララからはされません。
AFという単語はでてくるものの、これが何の略なのかという説明ももちろんなく、おそらくartificial friend であり、この世界の子供たちが学校には通っておらず、オブロン端末で個人授業を受け、それを補完するための「友達」なのだろうと予想はつきます。
そもそも「信頼できない語り手」で知られるカズオ・イシグロ作品なわけで、クララは信頼できないわけではないけれど、自分の目で見た断片的な情報しか伝えてくれないので、ジョジーの負っている障害、姉サリーの死因、「向上処置」とは何であるのか、わからないまま読み進めるのがちょっと疲れたりもしました。
(読み終わってから向上処置の副作用がサリーの死因であり、ジョジーの病気の原因だと気がつきました。これってわりと大きなポイントなんだけど説明なしなんだな。)
原題『Klara and the Sun』が『クララとお日さま』と訳されているように本作は児童文学的な装いをしており、クララがAIロボットであるのは、なにもSF的ディストピアを描くためではなく、純粋無垢な子供の視点からこの世界を見るという設定が重要だったのではと思います。
(『わたしを離さないで』のSF設定がストーリー以上に重視されるのがいつも不思議なんですが、本作のAIロボットや格差社会も世界観として必要な設定なだけでそこに物語の本質はないと思う。)
クララの視点の描き方がボックスで認識したり、人の形が立方体になったり、3DCG的なのはなんかわかる。
肖像画のあたりから急に不穏な話になってドキドキするんですが、その後の展開がファンタジーすぎて消化不良。どちらかというとバッドエンドルートとして肖像画展開のほうが見てみたかったです。人の心を演じることはできるのか、そのときクララの心はどこに行くのか。
クララが純粋無垢な瞳で見つめているのは人間の孤独。クララ自身は孤独ではないんでしょうか。
「たぶん、人は誰でもさびしがり屋なんです。少なくとも潜在的には」


2021/10/10

『ずっとお城で暮らしてる』

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

『ずっとお城で暮らしてる』
シャーリィ・ジャクスン
市田泉 訳
創元推理文庫

タイトルが素敵すぎて気になっていた一冊。
原題はWe have always lived in the castle。
ファンタジーなのかミステリーなのかホラーなのかも知らず読み始めましたが、「恐怖小説」というジャンル。ホラーと呼ぶよりしっくりする。
「村の人々は、ずっとあたしたちを憎んでいた。」という一文の破壊力。
なぜ村の人々がそこまでブラックウッド家を憎んでいるのか、6年前に本当は何が起こったのか。語り手であるメアリ・キャサリン(メリキャットという呼び名がめっちゃかわいい)は18歳にしては言動が幼すぎるのだが彼女の中では6年前から時間が止まっているのだろう。そもそもメリキャットは本当に存在するのか?コンスタンス姉さんは?
静かに崩壊していく感じに終始ゾクゾクして読みました。桜庭一樹の解説ではメリキャットの異常性が指摘されていてそれが普通の読み方だと思うけど、私はむしろ村の人々の悪意が怖かった。いちばん異常なのはコンスタンス姉さんではという指摘ももっとも。


2021/09/07

『南仏プロヴァンスの木陰から』

南仏プロヴァンスの木陰から (河出文庫)

『南仏プロヴァンスの木陰から』
ピーター・メイル
小梨直 訳
河出文庫

『南仏プロヴァンスの12か月』に続くピーター・メイルのプロヴァンスエッセイ。

1991年(日本語訳1993年)出版なので、著者がプロヴァンスに移住してから4、5年くらい。前作がプロヴァンスブームを引き起こしたことで不動産価格は爆上がりしているものの、トリュフを買いつけたり、山の上でピクニックしたり、ドッグ・ショーを見に行ったり、ワインやパスティスを試飲したり、食べたり飲んだりのカントリーライフが楽しく綴られている。

オランジェの古代劇場で開催されるパヴァロッティのコンサートなんて、とても豪華なセレブライフのようだが、彼が歌の間に食べているものを想像してコースメニューを考えてみたり、著者の文章にはユーモアがあり、変な気どりがない。

プロヴァンスが美しい場所だったことはもちろんだけど、世界的ベストセラーの一番の理由はこの文章のおもしろさだと思う。現在ではほぼ絶版になってしまっているのが残念。