2026/01/27

『あめりか物語』

あめりか物語 (講談社文芸文庫)

『あめりか物語』 
永井荷風
講談社文芸文庫

永井荷風ブーム続行中につき、初期の代表作を読んでみました。

永井荷風は明治36年(1903年)〜明治40年(1907年)、24歳から28歳まで、アメリカ遊学しています。

解説と年表によると、タコマ、セント・ルイス、ミシガン州、ニューヨークと渡り、カレッジの聴講生ののちワシントンの日本公使館、正金銀行ニューヨーク支店に勤務しているようですが、基本的には親の金での外遊です。

『あめりか物語』というタイトルから想像されるようなアメリカ賞賛の外遊記かと思いきや、親の金で留学するのにも飽きて純情な日本人女学生をもて遊ぶ男の話とか、富豪の夫人のヒモになっている男とか、一攫千金を夢見てやってきたのに身を持ち崩して裏町に暮らしている男とか、「アメリカの日本人」(しかも堕落した日本人)の話ばかり出てきます。

また、ちゃいなたうんとか、シアトルの日本人街とか、ブロードウェイとか、裏町を歩き回り、色街の女たちを描いているあたりは、アメリカまで来て何をしているのかというか、三つ子の魂というか。

おそらく一番有名なのが『牧場の道』のタコマの癲狂院に収容された日本人の話。
この癲狂院、「ウェスタン・ステート・ホスピタル」として現存するそうです。当時の精神病院といえば、病気が悪化するような治療しかしていなかったんじゃないかと想像してしまいます。
親の金でフラフラと遊学する日本人学生がいる一方で、アメリカの最下層で働く日本人の出稼ぎ労働者の存在。この対比が『あめりか物語』の全編にわたってさらっと描かれています。

当然ながら荷風は遊学している上層の側なので、下層の労働者たちに思いは馳せても彼らを救済しようとするわけでもなく、社会を批判するわけでもなく、そんな距離感も感じます。

(21ページ)
彼等は人間としてよりは寧荷物の如くに取扱われ狭い汚い船底に満載せられていた。天気の好い折を見計って彼等はむくむく甲板へ上って来て茫々たる空と水とを眺める、と云って心弱い我等の如く別に感慨に打たるる様子もない。三人四人、五人六人と一緒になって、何やら高声に話し合って居る中、日本から持って来た煙管で煙草をのみ、吸殻を甲板に捨て、通り過ぎる船員に叱責せられるかと思うと、やがて月の夜なぞには、各自の生国を知らせる地方の流行唄を歌い出す。私は彼等の中に声自慢らしい白髪の老人の交って居た事を忘れない。

シアトルの日本人街が気になって調べてみました。1930年代頃には8000人が住んでいた日本町ですが、開戦後、住民は強制収容所に送られ日本町は消滅。現在ではパナマ・ホテルなど一部が歴史的建造物として保存されているそうです。

アメリカ外遊記にふさわしい『夏の海』、『市俄古の二日』、イギリス人女性とのつかの間の恋を描いた『六月の夜の夢』なども印象的。

講談社文芸文庫版は2000年発行なので、漢字やかなづかいが改められているのですが、それでも今はあまり使われないだろう文字やかなづかいが多用されていて、読むのに時間はかかりますが、なんとも趣きがあります。
おそらく声に出して読んだときの響きも考えて書かれた文章のリズムの美しさ。

(197ページ)
此の晴渡った明い夏の日、爽快な海の風吹く水村は世の夢を見尽した老人の隠場では無く、青春の男女が青春の娯楽青春の安逸青春の痴夢に酔い狂すべき温柔郷である。

科学者ならぬ無邪気の少女(おとめ)は野に咲く花を唯だ美しいとばかり毒艸なるや否やを知らぬと等しく道学者警察官ならぬ自分は、幸にして肉体の奥に隠された人の心の善悪を洞察する力を持たぬので美しい男美しい女の歩む処、笑う処、楽しむ処は、凡て理想の天国であるが如く思われる。ましてや、此の夏の海辺は冬の都の劇場舞蹈場の如く、衣服と宝石の花咲く温室では無く、赤裸々たる雪の肌の薫る里であるをや。

◆関連リンク
『牧場の道』の自転車ツアーとタコマの癲狂院について、こちら大変参考になりました。

◆関連書籍
あめりか物語 (岩波文庫 緑42-6)
『あめりか物語』 
永井荷風
岩波文庫

2026/01/06

『怪談 【決定版】』

怪談 決定版 (角川ソフィア文庫)

『怪談 【決定版】』
ラフカディオ・ハーン
池田 雅之 編・訳
角川ソフィア文庫

『ばけばけ』関連2冊目。
ラフカディオ・ハーンの『怪談』はいろんな版が出ていますが、最近出版された(2025年8月)こちらにしてみました。
『怪談』をはじめ、『骨董』、『霊の日本』などからハーンによる再話文学、彼のアニミズム的自然観、仏教的生命観が書かれたエッセイを収録。

小泉八雲といえば『耳なし芳一』。アニメ放送自体を見ていないにも関わらず、保育園にあった『日本昔ばなし』カルタの『耳なし芳一』の絵札がめちゃくちゃ怖かったことを覚えています。大人になって読むと、怖いというより、哀しく美しい物語です。

表紙に使われている「ろくろ首」と「雪おんな」はハーンの直筆イラストだそうですが、『怪談』に収録されている『ろくろ首』は首が伸びるタイプではなく、首が外れて飛ぶタイプ。
物語の舞台は「甲斐の国」で「ろくろ首の墓」が今でもあると書かれていますが、残念ながら現在の山梨には残っていないようです。

『雪女』のほかにも異類婚姻譚や生まれ変わりの話も多いです。
「再婚しないで欲しい」と言って亡くなった妻が、後妻を殺しにやってくる『破られた約束』とか『因果話』とか、女の怨念話は幽霊というより人間怖い。

『ばけばけ』的には『牡丹灯籠』も収録。これ、落語として聞くのは怖そうだなあ。

ハーンは両親の離婚により幼くして捨てられ、厳格な叔母に育てられたという不幸な生い立ちゆえに、幽霊や暗闇を怖がると同時に囚われているような子供時代をおくっているんですね。カトリック的な宗教観よりも仏教やアニミズムのほうが彼にとっては共感できたのでしょう。

日本に関する最初の著書である『見知らぬ日本の面影』が1894年出版であるのに対し、『怪談』は晩年である1904年出版。それもあってか、死生観や「万物は一なり」といった思想も描かれています。

(262ページ)
今までにない不思議な思いで、私はそもそもこの世に始まりなどなかったし、終わりもないはずだ、と確信したのである。

『歴史探偵』でトミー・バストウさんが話していた『蚊』も収録。ハーンの墓は雑司ヶ谷霊園にあるそうなので蚊に刺される覚悟で訪れてみたい。

(168ページ)
この梵鐘の音が聞こえるところに、私はいたいのだ。そして、私は食血餓鬼道に落とされることにでもなれば、竹筒の花入れか水溜めの中に生まれ変わり、そこからそっと飛び立って、私のか細い、刺すような辛辣な歌声を響かせながら、自分の知っている人たちを刺して回るであろう。


2026/01/02

『荷風の昭和 ≪後篇≫』

荷風の昭和 後篇 偏奇館焼亡から最期の日まで (新潮選書)

『荷風の昭和 ≪後篇≫』
偏奇館焼亡から最期の日まで
川本三郎
新潮選書

永井荷風の日記『断腸亭日乗』をベースにたどる昭和史。後篇では日米開戦から昭和34年に死去するまでが書かれている。

麻布の偏奇館が空襲で焼け、中野に移るがここも空襲で焼け出され、兵庫県明石、さらに岡山に疎開。岡山で終戦を迎え、熱海、市川と移り住む。
ここらへんは空襲に次ぐ空襲なので読んでいても辛い。ただここまで当時の生活を小説ではなくノンフィクションとして書かれたものは読んだことがなく、焼け出された人たちがどうしていたか、疎開といっても簡単に家が見つからない、列車の切符が手に入らず移動手段にも困る、お金をもっていても食糧がないなど、なかなか興味深かった。

荷風が中心ではあるものの、『日乗』に出てくる事件や人の名前など、ほかの資料から詳しく調べているので、芋づる式に昭和の文芸史であったり、文化史になっているのがおもしろい。

たとえば、まったく知らなかった住友令嬢誘拐事件とか。『四畳半襖の下張』裁判で有吉佐和子が弁護側に立ち、作品を読んで「男の人ってこんなに努力なさるものかと思って可哀想」と発言しているのもさすがという感じ。

戦時下に音楽会を開催したり、荷風と一緒に逃げていたピアニスト宅孝二が、『白鍵と黒鍵の間』の南博の恩師であるという繋がりにびっくりしたり。(映画で佐野史郎が演じた宅見先生のモデルでしょうか)

かつての愛人だった関根歌が77歳になった荷風を市川に訪ねているのも微笑ましい。

1992年公開の『濹東綺譚』の主演が津川雅彦だったこともあり、予告編の印象で、永井荷風というのはエロいおじさんの小説というイメージがずっと強かったんですが、実際のところ原作の『濹東綺譚』には色っぽい描写はまったくないんですよね。娼宅にお茶飲みに来ているような感じ。

『つゆのあとさき』にしてもヒロインの女給よりも、銀座のカフェや女給の自宅である市ヶ谷、宿のある神楽坂、愛人の父親が住む世田谷代田あたりの風景がていねいに描かれていて、風景を描くことで時代の雰囲気や失われていくものをとらえようとしている気がしました。

『荷風の昭和』を読むと、小説を書く前にまず舞台となる場所を何度も何度も歩いているので、荷風が描きたかったのはやはり風景なのではないかと思います。


2025/12/31

『荷風の昭和 ≪前篇≫』

荷風の昭和 前篇 関東大震災から日米開戦まで (新潮選書)

『荷風の昭和 ≪前篇≫』
関東大震災から日米開戦まで
川本三郎
新潮選書

カフェの日本史から女給が気になり、女給を主人公にした永井荷風の『つゆのあとさき』を読んでみたところ、そこに書かれた昭和初期の銀座をはじめ、市ヶ谷、神楽坂など東京の描写が良かったので、ガイド本的にこちらを読んでみました。
荷風の日記『断腸亭日乗』と彼の作品をベースにたどる昭和史。
今年の小林秀雄賞を受賞。
前篇だけで500ページを超えてるので読み終えるのに時間がかかりましたが、めちゃくちゃおもしろいです。
たとえば、私も気になった『つゆのあとさき』で主人公・君江が数寄屋橋の朝日新聞社にあがるアドバルーンを見上げる場面。
アドバルーンが広告に使われるようになったのが大正時代で、朝日新聞社の建物が建てられたのが震災後の昭和二年。震災後に復興したモダン都市東京の風景だったことがよくわかります。
君江が住んでいる市ヶ谷本村町、銀座のカフェ、ここらへんも現在の地名や変遷が解説されていて、『つゆのあとさき』に書かれていた「市ヶ谷停車場」は外濠線という市電の駅だったことを知ったり。
荷風は実家が裕福だったこともあり、慶應の教授をちょっとしていた以外は定職を持たず、生活のために作家をしているわけでもないんですね。
9時頃に起きて、床のなかでショコラを飲み、クロワッサンを食べ、昨夜の読み残しの詩集を読む。隅田川あたりを散策し、銀座や神楽坂でビフテキを食べる。なんという高等遊民生活。
『日乗』に書かれた荒川放水路の散策が詳しく載っており、Googleマップで荷風の足取りを確認しながら読むと、当時の風景が再現されて、これもすごくおもしろい。隅田川あたりは一度歩いてみたいです。
荷風の中学の同級生だった外交官・佐分利氏が富士屋ホテルでピストル自殺した事件など、富士屋ホテルの洋館に泊まったことがあるんですけど、どの部屋だったんだろう。
左利きなのに右手にピストルを持ってるとか、遺書がなかったことから松本清張がこの自殺説に疑問をもってるのもおもしろい。
荷風は女性とまともに恋愛をする気がなく、芸者、私娼、女給と、その時々でビジネスライクに付き合ってきたのかと思っていたんですが、川本さんの解説によると、むしろ女性らしさ、そのものを愛し続けた人であったようにも思えます。
といっても、『日乗』の有名らしい「つれづれなるあまり余が帰朝以来馴染を重ねたる女を左に列挙すべし」という女性リストには笑ってしまうんですが。16名の名前が書かれていて「此他臨時のもの挙ぐるに遑あらず」。
昭和100年といいますが、100年で東京の風景はまったく変わったようでもあり、じつはあまり変わっていないようでもあり。
私も荷風のように東京を歩いて、消えていった昭和の面影を探してみたいです。

2025/12/19

『新編 日本の面影』

新編 日本の面影 (角川ソフィア文庫)

『新編 日本の面影』
ラフカディオ・ハーン
池田 雅之 訳
角川ソフィア文庫

岩波少年文庫『雪女 夏の日の夢』に載っていた随筆がとても良かったので、一度ちゃんと読んでみようと思っていたラフカディオ・ハーン。
朝ドラ『ばけばけ』が始まる前にと思っていたのに後追いになってしまいましたが、並走しながら読むと理解が深まります。

原本の『日本の面影』は27編あるそうですが、そこから11編を部分的に訳出したアンソロジーとのこと。
『雪女 夏の日の夢』でも読んでいますが、文章がとても美しいです。松江の朝の風景など、朝靄の描写が印象画のようです。
メモっていても一文がとても長いので、原文はもっと長く、形容詞の多用された難解な文章なんだろうと思われますが、読みやすいく訳されています。

『ばけばけ』視聴者的にいうと、
松江の朝を描いた場面、「水飴を買う幽霊」の話は『神々の国の首都』
「鳥取の蒲団」、「子捨ての話」は『日本海に沿って』に出てきます。

(「鳥取の蒲団」はここでは宿の女中さんから聞いた話となっていますが、八雲の息子さんの手記によると、セツ夫人から聞いた話で、セツ夫人は前夫からこの話を聞いたそうで、えっ、そこ史実だったんだ!という驚き。)

のちの『怪談』のように再話文学としてではなく、随筆の中に挟まれるように怪談が紹介されているのですが、ラフカディオ・ハーンにとって怪談は、日本人の宗教観、文化、精神を理解する上で大切なものだったんですね。

というか、神道や仏教に対する知識や理解が私のはるか上で驚きます。
鶯が「法華経」を唱えているなんて考えたことなかったよ。

(154ページ)
風変わりな迷信や、素朴な神話や、奇怪な呪術のずっと根底に、民族の魂ともいえる強力な精神がこんこんと脈打っているのである。日本人の本能も活力も直観も、それと共にあるのである。

おそらくセツ夫人と新婚時代に出雲や潜戸に行っているんですが、出雲はわかるとして、子供の幽霊の伝説がある場所に新婚旅行で行く夫婦……。ここドラマでもやってくれるのかな。

『日本の庭にて』は現在、小泉八雲旧居として公開されている武家屋敷(『ばけばけ』ではオープニングに出てきます)の庭の話。

(217ページ)
特に忘れてはならない大事なことは、日本庭園の美を理解するためには、石の美しさを理解しなければならないということだ。
石にもそれぞれに個性があり、石によって色調と明暗が異なることを、十分に感じ取れるようにならなくてはいけない。

『英語教師の日記から』には「日本の学校には懲罰というものが存在しない」と書かれてるんですがほんとかい? 日本の公立校は『クオレ』に似てるってほんとかい?
『教育勅語』公布の話なんかも出てきて興味深いです。

『さようなら』は松江を去るときの話。
小谷くんのモデルとなった大谷正信くんが中学校代表としてお別れの辞を述べています。
送別会でハーンは「天皇のために死にたい」という生徒の願いを「気高い望み」としつつ、「日本では命を犠牲にするようなことは起こらないだろう」と信じる、そんなときは「国のために死ぬのではなく、国のために生きてほしい」と語っているのも興味深いです。

全体的に日本を高く評価しすぎではないか(ハーンさん盛りすぎではないか)、と思わないでもないですが、西洋人だからこそ見える日本の美しさ、日本人の精神性が記録されていて、これを現代の日本は失ってしまったんだろうか、忘れてしまったんだろかと考えさせられます。

(261ページ)
出雲だけではない。日本国中から、昔ながらの安らぎと趣が消えてゆく運命(さだめ)のような気がする。ことのほか日本では、無常こそが物事の摂理とされ、変わりゆくものも、それを変わらしめたものも、変わる余地がない状態にまで変化し続けるのであろう。それを思えば、悔やんでも仕方のないことだ。


2025/11/11

『ポアロのクリスマス〔新訳版〕』

ポアロのクリスマス〔新訳版〕 (クリスティー文庫 エルキュール・ポアロ)

『ポアロのクリスマス〔新訳版〕』
アガサ・クリスティー
川副 智子 訳
ハヤカワ文庫

ポアロシリーズ17作め。1938年の作品。
クリスティー文庫のポアロシリーズは34作あるので、やっと半分です。
『ポアロのクリスマス』は2003年の村上啓夫訳を2年前に読んでますが、順番にしたがって新訳版も読んでみました。
細かいところまでは覚えてませんが、全体的にセリフがやわらかく読みやすくなっている印象です。

(村上訳)
「あなたは、大人の節度ある眼でそれを回想するかわりに、子供の判断でそれを見ようとなさるからですわ」

(川副訳)
「過去に起きたことを当時の少年の気持ちで判断してはだめ。もっと穏やかに、おとなの目で振り返らなくては」

さすがに犯人もトリックも覚えているので、伏線回収しながら読みましたが、いや、これ、犯人わからないでしょ。
森昌麿の解説に前作『死との約束』から「家庭内の不協和音」、「殺されねばならない存在」という要素が引き継がれつつ、中近東ではなく、英国のお屋敷に原点回帰している、とありましたが、これはなるほど。
「殺されねばならない存在」が殺されることによって「家庭内の不協和音」が解消され、ハッピーエンドになってるんですよね。

ミドルシャー州の警察本部長ジョンスン大佐は『三幕の殺人』からの再登場。思いっきり『三幕の殺人』の犯人がネタばらしされています。『もの言えぬ証人』など、ほかの作品でもありましたが、当時はアガサ・クリスティー作品を順番に読んでいて当然だったんでしょうか。

(134ページ)
「クリスマスには、善意の精神なるものがあります。それは、おっしゃるように、〝するべきこと〟なのでしょう。昔の仲たがいが修復され、かつて意見の合わなかった者同士が、一時的にせよ和解するべきなのでしょう」

「で、家族が、一年じゅう離ればなれでいた家族たちが、また一堂に会するわけです。そうした状況のもとでは、友よ、非常に強い緊張が生まれるということを認めなければなりません。もともと互いをよく思っていない者同士が、打ち解けているように見せなければならないというプレッシャーを自分にかけるわけですから! クリスマスにはとてつもなく大きな偽善が生まれます。」

(378ページ)
「このクリスマスは笑って過ごすつもりだったの! イギリスのクリスマスはとっても愉しいって、本で読んだから。焼きレーズンを食べたり、炎につつまれたプラム・プティングが出てきたり、薪に似せたユール・ログっていうケーキもあったりするのよね」


2025/09/27

『死との約束』

死との約束 (ハヤカワ・ミステリ文庫 エルキュール・ポアロ)

『死との約束』
アガサ・クリスティー
高橋 豊 訳
ハヤカワ・ミステリ文庫

ポアロシリーズ16作め。1938年の作品。
原題の『APPOINTMENT WITH DEATH』がかっこいい。

新訳版が出ていなかったので、クリスティー文庫ではなく、ハヤカワ・ミステリ文庫で。

1978年の翻訳だからなのか、「異性としての魅力」とか「性別」みたいな言葉を「セックス」と直訳してるのが気になりました。
「辞書の中のもっとも不愉快な言葉でも、平気で人前で使う」という台詞があるので、わざと直訳したのだと思いますが、若い女性に対して使うとジェラール博士がセクハラしてるみたいに見えるんだよなあ。

殺人の舞台はヨルダンのペトラ遺跡。
『メソポタミアの殺人』、『ナイルに死す』に続く中近東シリーズですが、前2作に比べると旅情は薄め。
ペトラ遺跡は岩だらけで山登りばかりしている印象で、「ローズ・レッド・シティ」は「なまの牛肉みたい」と言われています。

エルサレム、ヨルダンという場所がらもあり、通訳のユダヤ人批判がうるさいという描写があったり、アメリカ人、イギリス人、フランス人の金持ちが現地のベドイン人をこきつかって観光してる感があります。
(べつにこれを批判しているわけではなく、当時はそういう状況だったんだなあと思って読んでいます。クリスティーの描く上流階級の視点はいつも興味深い。)

ミステリ的にはミスリードに引っかからないようにと注意しすぎてミスリードされるところもありましたが、犯人はわかりやすい。『ナイルに死す』に続いて決着のつけ方が気にいらないところもありますが、エピローグは大団円。

◆関連書籍
死との約束 (クリスティー文庫 エルキュール・ポアロ)
『死との約束』
アガサ・クリスティー
高橋 豊 訳
クリスティー文庫

2025/09/15

『縄文王国やまなし』

縄文王国やまなし

『縄文王国やまなし』
九州国立博物館 監修
求龍堂

夏休みの間、ペットボトルロケットを作ったりする博物館の出張イベントがショッピングモールで開催されていたのですが、そのひとつに縄文土器の展示がありました。

それまで知らなかったんですが、山梨県は「縄文王国」なのだそうです。フルーツ王国はともかく、縄文王国ってなんだよって感じですが、山梨県と長野県の中部高地は、縄文中期の中心地で遺跡も数多く出土しているんだとか。

縄文中期(約5000年前)とはいえ、現在と地形はそう変わらないだろうし(富士山が今の形になったのは約一万年前)、なぜ平地ではなく、こんな山の麓や盆地が栄えたのか?

こちらは2019年に九州国立博物館で開催された展示会の図録。
九州で山梨の縄文展示?と思いますが、山梨県のルミエール・ワイナリー会長の発案だとか。
この会長つながりらしいコラムが掲載されていて、学術的なものからポエムみたいなものまであってびっくりしますが、図録だけあって土器や土偶の写真は大変わかりやすい。

山梨からは水煙文土器など珍しい形の土器も発見されているんですが、過剰な装飾は本来の目的である煮炊きには向かないとか、有孔鍔付土器の穴はなんのためにあるのかわかっていないとか(酒、ひいてはワイン作りという萌える説もあり)、イノシシとヘビとカエルがひとつの土器にデザインされているのはなんの物語を象徴しているのかとか、この頃の土偶は釣り上がった目をしているとか(「差別的」と言われる、あの細いつり目なんですが、縄文人ってこんな顔してたんですかね)、いろいろおもしろいです。

じつは、家からそれほど遠くないところでも発掘調査が行われていて、そこからも顔面把手付土器や土偶がきれいな状態で発見されています。どうせたいしたことないだろうと気に留めてなかったんですが、現地での展示説明会なんかもあったみたいで惜しいことをしました。

そもそも縄文時代ってなんなのか。
言われてみれば当たり前なんですが、縄文時代って日本史だけの区分なんですよね。世界史だと新石器時代。
最新の研究により、縄文時代、弥生時代の捉え方も私が学校で習った頃とは結構変わっているようです。ここらへんも気になるのでお勉強してみたいと思います。


2025/09/09

『濹東綺譚』

濹東綺譚 (岩波文庫 緑41-5)

『濹東綺譚』
永井荷風
岩波文庫

『つゆのあとさき』が予想外に良かったので、永井荷風の代表作といわれるこちらを。
1937年(昭和12年)の作品。

初老の作家が玉の井の私娼窟で若い女と出会い、彼女に過去の幻影を見る、という「男の妄想」みたいな物語。

銀座のカフェーの女給と比較して、お雪はまだ純朴であると言っているあたり、さんざんカフェーで遊んできたお前が言うなという感じですね。
芸者を見受けしたこともある荷風が、それを彼女たちのせいにして「失敗だった」というのもまた。

(126ページ)
 わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女たちの望むがまま家に納れて箕帚を把らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終った。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからざる懶婦となるか、しからざれば制御しがたい悍婦になってしまうからであった。

ただ、作家が過去の幻影を見ているのは、お雪だけでなく、銀座あたりでは失われてしまった江戸の風情を玉の井の私娼窟に投影しているんですよね。汚いドブ川が流れる売春宿にこそ、心を救われる美しさがあるという情景が描かれています。

(118ページ)
いつもの溝際に、いつもの無花果と、いつもの葡萄、しかしその葉の茂りはすこし薄くなって、いくら暑くとも、いくら世間から見捨てられたこの路地にも、秋は知らず知らず夜ごとに深くなって行く事を知らせていた。

岩波文庫版では新聞連載時の木村荘八の挿絵が掲載されているんですが、これを見ると当時の向島界隈、人通りも少ないし、めちゃくちゃ暗い。「ラビラント」に迷いこむような、橋を渡ると異世界みたいな感じだったのかなと。

「あとがき」にあたる「作後贅言」に、帚葉翁(校正家・神代種亮のことだそうです)とともに銀座をうろついた日々のことが書かれているのが個人的には本文以上に興味深かった。

特に、酔った男たちが他党を組んで銀座を歩く「無遠慮な実例」として早慶戦の後の慶應の学生とOBをあげているのはおもしろい。
荷風は慶應の教授となり『三田文学』を創刊してるんですが、「早く辞めてよかった」とまで言っている。

(165ページ)
その実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。

(166ページ)
そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。

また、「銀座のカフェーは夏になると暑い紅茶と珈琲を出さない」、これは「紅茶と珈琲本来の香気を失ってしまうものである」と書かれているのも、カフェの日本史を追っている私としては気になるところ。

戦争をはさんで一度全て焼失しているんですけれど、昭和のはじめの銀座がすでにここまでモダンだったことに驚きますし、現在まで残っているもの、消えてしまったものに心惹かれます。
『荷風の昭和』という本も出ているので読んでみたいです。


2025/08/30

『つゆのあとさき』

つゆのあとさき (岩波文庫 緑41-4)

『つゆのあとさき』
永井荷風
岩波文庫

カフェの日本史を調べていると必ず出てくる「純喫茶」ではない「カフェー」。和装に白いエプロンの女給さんというイメージは浮かぶものの、どういう店なのか、女給の仕事はどんなものなのか、風俗営業に近いこともあって具体的には書かれていないので気になっていました。

そこで女給を描いた小説を検索してみたら、真っ先に出てきたのがこちら。1931年(昭和6年)の作品。銀座のカフェーで女給として働く君江が主人公。

永井荷風は初めて読みましたが、解説によると「生涯の大部分を独身で過した荷風は、日本人離れした西欧的合理主義から、定期的な性的欲求を満すためにだけ、常に一定の女性と契約を結んでいた。」ということで、だいぶゲスな生活をしていたようです。

荷風が気に入って通っていたのはカフェー・タイガー。カフェー・パウリスタ、カフェー・ライオンと並んで、カフェの日本史には必ず出てくる名前で、「美人だが素行の悪さでライオンをクビになった女給がタイガーで雇われ、お色気路線の営業をしていた」そうです。

常連だっただけあってカフェー店内の雰囲気がわかりやすく書かれています。
女給は早番だと11時、遅番だと15時出勤。
食事を運んだり、お茶を入れるわけでもなく、客と同席するのが仕事。今のホステスに近い感じですかね。
客は女給目当てで通ってくる人もいれば、商談や買い物帰りで普通に喫茶として利用している人もいたり。
給料がどうなっているのかわかりませんが、基本的には客からもらうチップで稼いでいる。
カフェー自体は喫茶として営業しているわけですが、客と懇意になった女給は誘われれば仕事帰りに客とともに待合へ、というのがパターンのようです。

この「待合」も小説にはよく出てきますが、現存しないのでいまひとつ実体がよくわからないシステム。料理は近くの料亭から運ばせ、食事もできるけど、お風呂が沸いていたり、隣の部屋には布団が敷いてあったり、ほとんどラブホテル的な役割。

『つゆのあとさき』では神楽坂にある待合が出てきます。今でも神楽坂は細い路地の奥に知らない人はたどりつけないような料亭があったりして、色街の名残を感じます。

神楽坂だけでなく、カフェーのある銀座、君江が住んでいる市ヶ谷本村町、松陰神社など、通りや風景が細かく書かれているので、現在の地図と照らし合わせながら、当時を想像してみると楽しい。

主人公の君江は貧しい家に生まれたわけでもないのに、ただふらふらと私娼になり、そのまま女給になり、恋人がいても他の客に誘われるままに浮気する、自堕落な女として描かれています。
実際にカフェーの女給には君江のような女性もいたのでしょうが、荷風自身が恋愛を信じていないようなところがあり、女給を軽く見ている感じもします。
君江だけでなく、彼女のまわりの男性客に対しても一定の距離をおき、誰に対しても共感や同情もなく冷めた目で描いているのがこの小説の特徴でしょうか。

谷崎潤一郎はこの小説を「記念すべき世相史、風俗史」と評しています。特に事件も起こらず、昭和初期の風景を描いただけ、なんですが、それが時代のざわざわ感とともになぜだか心に残ります。

「数寄屋橋の朝日新聞社に広告の軽気球があがっている」という描写があり、あれ?と思ったら、当時は数寄屋橋に朝日新聞本社があり、その跡地に有楽町マリオンが建っているんですね。今はそのマリオンも西武や映画館が閉館してだいぶ変わりました。そういう変化していく風景の一場面を切り取ったような感じがあります。

(102ページ)
疑獄事件で収監される時まで幾年間、麴町の屋敷から抱車で通勤したその当時、毎日目にした銀座通と、震災後も日に日に変って行く今日の光景とを比較すると、唯夢のようだというより外はない。夢のようだというのは、今日の羅馬人が羅馬の古都を思うような深刻な心持をいうのではない。寄席の見物人が手品師の技術を見るのと同じような軽い賛称の意を寓するに過ぎない。西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。


2025/08/26

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
三宅 香帆
集英社新書

説明不要の2024年のベストセラー新書。
本は読めなくともこの本は読めるんかい、と少し冷めた目で見てましたが、売れてる本には理由があったりするので手にとってみました。

新書らしいタイトルは釣り要素が多めですが、実際の内容はまえがきにもあるとおり「近代以降の日本の働き方と読書の関係」。まあ、これがタイトルだと売れないからね。

明治時代から2000年代までの「労働と読書の関係の歴史」は予想以上におもしろかった。

自己啓発本の源流は明治時代にはすでにあったとか、「片づけ本」が「自己啓発書の一種」であると言っているところとか、なるほど。

2010年代以降の「読書がノイズとなる社会」あたりから論がやや急になり、ここらへんはあまり納得できなかった。

かつては自分を向上させるものとして労働に必要だった「教養」は、「情報」だけを搾取したい現在においてはノイズとなるというのは理解できなくもないんだけど、結論が「働いていても本が読める社会」、「ノイズを許容する」、時間的にも精神的にも余裕のある働き方をめざそうという、ごく当たり前のところに着地したのもなんだか。

私が一番本を読んでいたのは、学生時代を別にすると、仕事が最も忙しい時期だったんだけど、あれも仕事の一貫として読書が必要だったから、なんだろうか。

全編にわたってフューチャーされている『花束みたいな恋をした』はずっと敬遠してきたのだけど、そろそろ見てみようかと思う。

最終的に「本が読みたい」テンションは上がったので良しかと思います。
(こういうところ自己啓発本のエナジー効果っぽいよな)


2025/08/19

『カフェと日本人』

カフェと日本人 (講談社現代新書)

『カフェと日本人』
高井 尚之
講談社現代新書

『珈琲の世界史』に日本のカフェ文化が世界的にも独特の発展をしたものであると書かれていて、そこに興味をもったのでこちらを読んでみました。

日本のカフェの歴史、特にドトールやコメダ珈琲などの話はなかなかおもしろかったんですが、著者が経済ジャーナリストということもあってマーケティング視点の語り口がいまいちピントこなかった。

「スタバがくるまでコーヒーは男性の飲み物だった」とされているけど、えー、そうかなあ。

歌声喫茶やジャズ喫茶のほか、風俗店としてのノーパン喫茶、インベーダーゲームが置かれていた時代、メイドカフェ、名古屋のモーニングなど、日本のカフェが独自の進化をした話は興味深いんですが、さらっと紹介されているだけなのが物足りない。

2014年刊行ということもあり、スタバやサードウェーブなども今とは位置付けが少し違うかも。

後半はカフェ紹介みたいになってしまうのですが、浅草のアンヂェラスは2019年に閉店しています。

日本のカフェ最盛期は1980年代の15万店(2012年は7万店と半分以下)。
カフェ単体の話をするなら、ジャック&ベティのダイナーなアメリカン、アニヴェルセルのパリ感、もっとカジュアルにダンキンドーナツなど、ガール文化に与えた影響とか、マクドナルドのコーヒーが泥水みたいだった時代とか、そういう話が個人的には知りたかったなあ。


2025/07/29

『珈琲の世界史』

珈琲の世界史 (講談社現代新書)

『珈琲の世界史』
旦部 幸博
講談社現代新書

『カフェの世界史』が物足りなかったので、そちらで紹介されていた『珈琲の世界史』を読んでみました。

・エチオピアからイエメンへ、紛争から逃れた人々がコーヒーの伝播に関わっていたのではないかという説
・イスラーム圏からヨーロッパへのコーヒー伝播ルート
・ボストン茶会事件はアメリカ独立だけでなく、紅茶からコーヒーへの転換となった
・イエメンのコーヒーノキの苗木や種子は密かに盗み出され、世界各地で栽培が始まる
・イエメンのモカ港は現在は廃墟となり、ブランド名の「モカ」が残っている。
・コーヒーの増産を支えたのは植民地や奴隷制
・奴隷解放後、ブラジルのリオのコーヒー栽培は破綻し、サンパウロは移民による労働力で栄えた
・さび病によってスリランカのコーヒー栽培は崩壊し、廃農園をリプトンが紅茶栽培に転換した
・ブラジルとアメリカのコーヒー価格をめぐる争い
・「コモディティコーヒー」の品質低下に対する「スペシャルティコーヒー」の誕生
・スターバックスに対するアンチテーゼとしての「サードウェーブ」
などなど。

コーヒーの歴史とは略奪の歴史であり、イギリス、フランスなど先進国のコーヒーブームを支えたのは植民地だったという史実がなかなか重い。大航海時代がなかったら、現代までコーヒーが飲まれることもなかったのかも。

ブラジルとアメリカの市場経済がコーヒー豆の品質を低下させるとともに、スペシャルティコーヒーを産み出したというのも興味深い。

特に、日本のコーヒー文化が独特で、「味にこだわる一杯淹て」が世界的にもめずらしいものだったというのがおもしろかったです。


2025/07/11

『ナイルに死す〔新訳版〕』

ナイルに死す 新訳版 (ハヤカワ文庫)

『ナイルに死す〔新訳版〕』
アガサ・クリスティー
黒原 敏行 訳
クリスティー文庫

ポアロシリーズ15作め。1937年の作品。
原題は『Death on the Nile』。

『オリエント急行の殺人』と並ぶ人気作ですが、読むのは初めて。
ナイル川をさかのぼる豪華客船なんて猛暑に読むにはちょうどいいだろうと思いましたが、これがほんとおもしろかった。

クリスティー作品によく出てくる男女の三角関係。従来は殺人事件の背景や人間模様の一部だったりしましたが、本作ではこの三角関係こそがストーリーのメイン。
全540ページの250ページくらいまで事件が起こらないのですが、もうこのまま何も起こらなくても十分おもしろい。

作中のカルナック号はサヘル島から第二急湍まで行って帰ってくる7日間のツアー。
1970年にアスワン・ハイ・ダムが完成したため、第二急湍は水没しているのですが、だいたいワディ・ハルファのあたり。
作中でも存在感を放っているアブ・シンベル神殿はダム建設にあたり移築されてるんですね。
エッセブアという地名も出てきますが、これは今はないのか地図では見つけられず。

カルナック号のモデルとなったクルーズ船「スーダン号」は今でも現役。現在はルクソール〜アスワンの5泊6日で1490〜2700ユーロ!(片道です)
カタラクト・ホテルも「ソフィテル レジェンド オールド カタラクト アスワン」として現存。「アガサ・クリスティ・スイート」という部屋もあるそうです。
クラシックな内装といい、当時も上流階級のための優雅な旅だったのでしょう。

このゴージャスな旅を特別なことでもなく、たいして楽しんでいるようでもなく、受け入れている人々の描写がむしろ旅情があって楽しいです。何度も映像化されているのも納得の映えそうなストーリー。

殺人事件現場にしては不謹慎すぎるほどロマンスも発生しますが、個人的には善人すぎる癒しのコーネリア嬢がお気に入り。

(227ページ)
「もちろん人間は平等じゃないです。平等だとしたら説明のつかないことばかりだもの。たとえばわたしは、なんかこうぱっとしない器量で、悔しいと思ったこともあったけど、もう気にしないことにしてます。」

基本的に若い娘さんには紳士なポアロ。リネット、ジャクリーヌ、ロザリー、それぞれにかける言葉が優しい。

『ひらいたトランプ』のレイス大佐も登場。
『青列車の秘密』のルーファス・ヴァン・オールディンも名前だけ登場。

2020年の新訳版。全体的には非常に読みやすいのですが、「博労」、「ピナフォア」、「セコティーン」といった言葉が特に説明もなしに使われているのがちょっと気になりました。

ミスリードがわかりやすいので今回は犯人も当たりましたが、殺人事件そのものよりも、コーネリア嬢を含めていくつかある三角関係の行方が気になり、最後まで楽しめました。

(483ページ)
「じゃ、どうしてわかったんです?」
「わたしがエルキュール・ポアロだからです!」

2025/06/27

『もの言えぬ証人』

もの言えぬ証人 (ハヤカワ文庫) 

『もの言えぬ証人』
アガサ・クリスティー
加島 祥造 訳
ハヤカワ文庫

ポアロシリーズ14作め。1937年の作品。
原題は『DUMB WITNESS』。

「もの言えぬ証人」とはおそらく犬のボブのこと。ワイア・ヘア・テリアのボブはヘイスティングズとも仲良し。この作品の献辞は、アガサ・クリスティーの愛犬(なのかな?)ピーターに捧げられています。

基本的にクリスティー文庫の新訳で読むというマイルールを設けていますが、1977年初版の加島祥造訳のまま変わってないようだったので、図書館で借りやすかった旧装丁版で。
真鍋博カバーのほうがやっぱりおしゃれ。下の方にボブくんも描かれています。

1977年訳だからなのか「服装の感覚が全然ない」となっているところは誤訳なのか、当時はファッションセンスという言葉が使われていなかったのか。

「小緑荘」は原文確認したら「Littlegreen House」でした。

ミニー・ロウスンは「家政婦」となっているけれど、メイドたちには馬鹿にされているので、原文確認してみたら「companion」となっていました。
日本には同じ職種がないのでわかりにくいですが、上流階級の婦人の「付き添い人」とか「話し相手」みたいな立場ですね。
『スタイルズ荘の怪事件』のイヴリン・ハワード、『葬儀を終えて』のギルクリストもコンパニオン。雑用係でもあるけれど友人でもある。

起承転結というよりはずっと承のまま、登場人物たちの話を聞いてまわっているうちに終わってしまうのですが、アガサ・クリスティなのでそれだけで十分おもしろい。
謎解きと解決方法だけ不完全燃焼感。

途中にこれまでの作品の犯人の名前が列挙されるポアロのセリフがあるんですが、これはOKなのか? 

登場人物では贅沢大好きなテリーザと、噂話大好きおばさまミス・ピーボデイがお気に入り。

189
「この人生をそのくらいのことで我慢してられないわ。あたしの欲しいものは最上のものだけ。最上の食物、最上の衣服、ただ流行を追って身体を蔽うといったものでなくて、なにか美しいものを表現した衣服。あたしは生きたいのよ。人生を楽しみたい。地中海沿岸に行って暖かい夏の海を楽しんだり、テーブルを囲んで、札束を積んでカード遊びをしたり、パーティを、思いきったぜいたくなパーティを開いたり、このいやな世の中のあらゆる楽しみを得たいわ。それもいつかというんじゃなく、今若いうちにほしいのよ」

324
「こんな田舎町で殺人があろうとは想像もしなかったね。ところで誰が犯人?」
「この大通りであなたに大きな声でそれを言えとおっしゃるんですか?」

「あたしとしちゃあ、タニオスを犯人にしてやりたいね。穴馬だ。しかし馬じゃないんだから望みどおりにゃいかないね。馬だってそううまくいかないんだからね。」

◆関連図書
もの言えぬ証人 ポアロ (ハヤカワ文庫)
『もの言えぬ証人』
アガサ・クリスティー
加島 祥造 訳
クリスティー文庫

2025/06/18

『カフェの世界史』

カフェの世界史 (SB新書)

『カフェの世界史』
増永菜生
SB新書

『アラビアンナイト』(岩波新書)の中に、ロンドンのコーヒーハウスやイスラムのチャイハネが文化の発信地として機能していたことが書かれていたので、そこらへんを知りたくて読んでみました。

ミラノ在住、イタリア史専門、カフェ巡りが趣味という著者が書いた本なので、世界史を軸にコーヒーやお菓子の歴史、各国(イタリア、パリなど、おもにヨーロッパ)のカフェ事情を紹介した内容で、カフェの文化史的なものが読みたかった私にはちょっと違うなあという感じでした。

日本の喫茶店だとコーヒーと紅茶はメニューに並んでるのが当たり前だけど、もともとお茶は中国や日本、アジアの文化発祥のもので、コーヒーはイスラム圏。それが大航海時代でヨーロッパに広まり、コーヒー豆も茶葉も植民地で生産された。そういう歴史を経て、現在のカフェがあるわけだよねというのはちょっと理解しました。

モロゾフの創業者はロシア革命の亡命者だったとか、ユーハイムの創業者は捕虜として日本に連れてこられたドイツ人だったとか、Bunkamuraのドゥ マゴ パリはパリの本店を模したものだったとか、ヴィクトリア&アルバート博物館のカフェ、ウェス・アンダーソンが手がけたカフェは行ってみたいとか、へえーというエピソードも多かったんですが、全体的にエピソード羅列して終わってしまってるのがなんとも。

カフェに対する愛を感じる「あとがき」がいちばん良かったと思います。


2025/06/10

『アンの夢の家』

アンの夢の家 (文春文庫)

『アンの夢の家』
モンゴメリ
松本 侑子 新訳
文春文庫

松本侑子訳アンシリーズ第5巻。
原題『Anne’s House of Dreams』。1917年の作品。
アンとギルバートの新婚時代。
訳者の松本侑子さんがアニメ『アン・シャーリー』に「アンはピンクの服は着ない。私に監修させて」とコメントしてちょっと話題になりましたね。
気持ちはわからなくもないですが、新しいものを作ろうとしている人たちをあまり困らせなくてもと思います。ちなみに私は絶賛されている高畑勲版も「私のイメージしているアンじゃない」と思ってます。みんなそれぞれ心にアンがいるのよ。
今回も100ページを超える注釈と解説がついていて圧巻です。
最大の功績は、今回の舞台フォー・ウィンズが現在のニュー・ロンドン湾がモデルだと解明していることでしょう。
モンゴメリは自分の両親が新婚時代を過ごした土地を、アンとギルバートの新婚の地にしているわけですね。これは胸熱。
巻頭に地図とケイプ・トライオン灯台、セント・ローレンス湾、砂州などの写真が掲載。
これによって初めて「フォー・ウィンズに長く伸びる砂州」の風景が具体的にイメージできました。
「内海」という訳には最後まで慣れませんでしたが、夢の家が町の中心からは馬車でぐるっと回るか、小船で渡るしかない人里離れた場所にあることがわかります。
レスリー・ムーアはアンシリーズのなかでも屈指の悲劇的美女でドラマチックな展開も大好きだったんですが、今回あらためて松本侑子訳で読んでみると、全体的にはすごく寂しさが漂います。
それは夢の家が人里離れた場所にあり、遠くまで出歩くことのできないアンと交流するのが、ジム船長、ミス・コーネリア、レスリーと限られた隣人だけであること、灯台と海が見える景色は美しいけれど孤独であること、全体を通して生と死が描かれていることがあるかと思います。

この物語で「フォー・ウィンズ湾に長く伸びる砂州」はあの世とこの世の境で、新しい生命は砂州を越えてやってきて、魂は砂州を越えて海の向こうへ帰っていくんですね。

フォー・ウィンズの風景描写は特に詩的で、子供の頃の私がこれを適当に読み飛ばした可能性はありますが、村岡花子訳で読んでいたときとはだいぶ夢の家のイメージが変わりました。

(82ページ)
荘厳にして穏やかな静けさが、あたりの陸と海と空に広がっていた。頭上には、銀色にきらりと光る鴎が高く飛んでいた。水平線には、レースにも似た儚い桃色の雲が浮かんでいた。静まりかえった大気には、風と波という吟遊詩人の囁きのくり返し(リフレーン)が糸のように織りこまれていた。内海の手前には秋模様のまき場にもやがかかり、薄紫のアスターの花々が風に揺れていた。

甘さよりも人生の辛さが感じられるアンとギルバートの新婚時代ですが、ギルバートが「アンお嬢さん」と呼んでいるのが新婚っぽいです。
英語でなんて言っているのか確認したら「Anne-girl」なんですね。
全文を確認したわけではないですが、村岡花子訳『アンの夢の家』ではこの呼び方は訳されていません。
『炉辺荘のアン』で母となり、もう若くないアンがジェラシーを抱いた時、ギルバートが再び「アンお嬢さん」と呼ぶんですが、これはギルバートにとってアンは新婚時代からずっと変わらないよという意味だったんですね!

「きみは、ぼくと一緒に、ちゃんとここにいてもらうよ、アンお嬢さん」


2025/05/26

『アラビアンナイト──文明のはざまに生まれた物語』

アラビアンナイト 文明のはざまに生まれた物語 (岩波新書)

『アラビアンナイト──文明のはざまに生まれた物語』
西尾 哲夫
岩波新書

岩波少年文庫『アラビアン・ナイト』上巻を読んで、私がアラビアン・ナイトだと思っていた物語はヨーロッパで作られたものだということに衝撃を受けてこちらを読んでみました。

『アラビアン・ナイト』の成立過程は『アラビアン・ナイト』本編よりもおもしろいんじゃないかと云う予想通り、非常に興味深い内容でした。

めちゃくちゃ複雑なんですが、ざっくりまとめると、
紀元9世紀頃のバグダッドで『アルフ・ライラ・ワ・ライラ(千一夜)』の原型が誕生。
1704年、フランス人東洋学者ガランがフランス語に翻訳した『ミル・エ・ユヌ・ニュイ(千一夜)』を出版。

ガランが翻訳に使用したのは15世紀頃のアラビア語の写本。「ガラン写本」と呼ばれるこの写本に収録されていたのは282夜(40話)。
千一夜分の物語があると信じたガランは続きを探し、手持ちの写本を全部訳してしまうと、シリア人から聞いた物語まで続編として刊行。
結果、もともとのガラン写本にはなかった『シンドバッド』、『アラジン』、『アリババ』も『千一夜物語』として収録されてしまう。

ガランの『千一夜物語』がベストセラーになったことで、完全な「千一夜」を収録したまぼろしの写本探しが過熱。ガランのフランス語版をアラビア語に再訳した偽写本まで登場。

現在まで本当に千一夜あったのかは不明。写本によって収録されている物語にも内容にも違いがあり、シェヘラザードの結末も写本によって違う。『アラジン』や『アリババ』が収録された写本も見つかっていない。原写本が見つかっていないこれらは「孤児の物語」と呼ばれている。

1706年にはガラン版を英訳した『アラビアンナイト・エンターテインメント』がイギリスで出版。それまで原題に忠実な「千一夜」というタイトルだったが、ここで「アラビアンナイト」という通称が誕生する。

1811年、子供向けに猥雑な部分を省略したスコット版『アラビアンナイト・エンターテインメント』が登場。児童文学というジャンルが成立しつつあったイギリスで『アラビアンナイト』は子供向けの物語となっていく。

東洋への憧れだった『アラビアンナイト』は、ゴシックやファンタジー小説へ影響を与え、児童文学となり、一方で大人たちには好色文学として好まれ、アラブ世界を理解するための資料として読まれた。

つまり、私が子供の頃に読んだものは、フランス語に訳されたガラン版→英訳して子供向けにしたスコット版→日本語訳みたいにして入ってきたものなんですね。
(後から作成されたアラビア語版→英訳→日本語版という可能性もあるけど、いずれにせよヨーロッパ経由。)

『アラジン』は「シナの少年」でありながら、私たち日本人はアラジンを同じアジアの少年とはみない。
ヨーロッパから見ると、「東洋」はイスラムからインド、中国、はてはジパングあたりまで含んでいるのに、日本からだと「シルクロードの先にある世界」みたいなざっくりした感じなんですよね。

本書ではこうした日本の欧米フィルターを通してみた「オリエンタリズムのねじれ」についても指摘されています。
今回、ディズニーの『アラジン』(1992年公開)も見てみたんですが、ランプの精ジーニーって弁髪なんですよね。これも今まで気にしたことなかったなあ。

フランス語訳が出版された1704年はルイ14世の時代で、フランス革命が起こるのはこの後。ヨーロッパから見た中東も憧れの国から植民地へ位置づけが変わります。

『アラビアンナイト』とは、実在したイスラムなどの中東世界のおとぎ話というよりは、フランスやイギリス、西欧で翻訳されていくなかで彼らの幻想を反映して形を変えていった物語なんだなと思います。


『アラビアン・ナイト 下』

アラビアン・ナイト 下 (岩波少年文庫 091)

『アラビアン・ナイト 下』
ディクソン 編
中野好夫 訳
岩波少年文庫

収録されているのは『アリ・ババと四十人の盗賊』など6編。
『シナの王女』は東洋文庫版だと『カマル・ウッ・ザマーンの物語』というタイトル。
『魔法の馬』は『黒檀の馬』。
『ものいう鳥』は『妹をねたんだ二人の姉』。これは原写本の見つかっていない「孤児の物語」のひとつ。
西尾哲夫『アラビアンナイト』(岩波新書)によると、いずれもガラン版に収録されている代表的な物語です。

しかし、下巻も長かった〜。
基本的に台詞が回りくどくだらだらと長い上に、ストーリーがどんどん別の話へと脱線していってメインの話が一向に進まない。かと思えば苦労して助けた王子がいきなり溺れ死んだり、話の展開にさっぱりついていけなくて苦労しました。

やはり西尾哲夫『アラビアンナイト』によると、これは「枠物語」という形式で、「大物語の中に小物語が埋めこまれ、さらにその小物語がいくつもの支話に枝分かれしていく入れ子式の構造」なのだそうです。

この中では『アリババ』は群を抜いてわかりやすい展開でおもしろい。写本からの翻訳ではなく、聞き書きを再構成したらしいという成立過程の違いでしょうか。

『アリババ』は小学生の頃、劇の会!で演ったことがあるんですが、クラスの中でも華やかで目立つ顔をした女の子がモルジアーナ役で、きれいな衣装で剣の舞を踊ったのを覚えています。

モルジアーナは侍女だと思っていたのですが、「女奴隷」なんですね。彼女の活躍に感謝して、アリババは奴隷の立場から解放しています。
あと、アリババの兄カシムが盗賊に殺されたあと、残された兄嫁とアリババが結婚しているのに驚きました。アリババにはすでに奥さんがいるので、2人目になるんですが、遺産相続とかも含めてよくあることだったんでしょうか。

もともとの『アラビアン・ナイト』にはけっこう際どい場面も多く、子供向け本ではカットされているらしいのですが、『魔法の馬』には王女がインド人にさらわれ、襲われそうになる場面が出てきます。
『漁師と魔物』でも妃が浮気するのがインド人となっていて、『アラビアン・ナイト』はインド民話も多く含まれているはずなのに、なぜインド人が悪役なのか。

『シナの王女』では、王女が拒絶した求婚者たちは首を切られてその首が城門にさらされたり、『ヘビの妖精と2ひきの黒犬』では、回教徒である王子以外の偶像信者たちがすべて石にされたり、いろいろと引っかかる描写もありました。

『アラビアン・ナイト』は翻訳によってもいろんな版があるらしいのですが、岩波少年文庫版でこれだけ読むのに苦労したので、本編はもう十分かな。成立過程の歴史や文化的な側面には興味があるので、もう少し調べてみたいと思います。


2025/04/14

『アラビアン・ナイト 上』

アラビアン・ナイト 上 (岩波少年文庫 090)

『アラビアン・ナイト 上』
ディクソン 編
中野好夫 訳
岩波少年文庫

今さら世界史の勉強をとろとろとやっているんですが、中東、アッバース朝の時代、ハールーン=アッラシードが『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』の登場人物だということで、読んでみることにしました。
上巻に収録されているのは『船乗りシンドバッドの1回目の航海』から『〜7回目の航海』、『アラジンと魔法のランプ』など、10編。
『アラビアン・ナイト』は小学生くらいのときに子供向けのものを読んだことがありますが、ちゃんと読むのは初めて。
あれ? 『アラジン』ってこんな話だったけ?
民話ということもあり、『アラジンと魔法のランプ』にもいろんなバージョンがあるらしいのですが、ここに収録されているのは、アラジンが悪い魔法使いに騙されるものの、魔法のランプを手に入れ、魔法のランプの力を使ってお姫様と結婚する物語。一目惚れしたお姫様に求婚する過程に話の大半が使われています。
この岩波少年文庫版の編者はE・ディクソン。イギリスの1951年出版を訳したものです。
日本語訳初版は1959年。新版は2001年出版。
前書きによると、ディクソン版の原本はガランのフランス語訳(1821年出版)。
そもそも『千夜一夜物語』はこのガランのフランス語訳でヨーロッパでブームになり、そのとき収録されていたのが264編。
1001編の物語が実際にあると信じられ、あちこちから説話が集められ、追加され、『アラジンと魔法のランプ』も『シンドバッドの冒険』も『アリババと四十人の盗賊』も最初のアラビア語の写本にはなかったそうです。
今まで私が『アラビアン・ナイト』だと信じていたものは、フランス人によってヨーロッパで作られたものだったわけですね。なんてこった!
アラジンは「シナの少年」となっているんですが、舞台が中国とは思えない。ヨーロッパから見ると、中国もペルシアもひっくるめてオリエンタルで同じようなものなのかもしれません。
なので、物語の価値観が中東のものなのか、ヨーロッパが反映されているものなのか、よくわかりませんが、アラジンもペルシアの王様も一目惚れしたお姫様に勝手に入れ上げ、豪華な贈り物をしてほとんど自分勝手に求婚するあたり、金さえあればなんでも手に入るというか、権力を財宝の量で示しているようなところがあり、なかなかドン引きします。
物語だというのもあるけれど、財宝がわかりやすく、宝石や奴隷で表現されるのもなんだか。
(233ページ)
中には、ハトの卵くらいもある大きなダイヤモンドが三百個、これも驚くほど大きなルビーと、長さ十五センチばかりもある棒型エメラルドが、それぞれやはり三百個ずつ、まだそのほかに三メートルもある真珠の首飾りが三十本などが、ぎっしりつまっています。
お姫様にしたところで、すごい美人という以外はどこがいいのかよくわからず、求婚してきた男が気に入らず魔法をかけるかと思えば、父王が結婚しろといえば素直に従う。うーん、これがイスラムなのか?
あと『アラジン』もそうなんですが、よくわからないところで話が長い。
魔法のランプをあっさり手に入れたかと思うと、お姫様に求婚するためにアラジンの母親がお城に通う話が延々と続く。
『ベーデル王とジャウワーラ姫』にいたっては、ベーデル王は鳥にされたり、船が沈没して魔女が支配する国にたどりついたり、(この魔女、気に入った男を40日間もてなして、飽きると動物にするって怖いんですけど。なんのメタファー?)、話があっちこっちへ跳びます。
これはいろんな民間伝承が合成された結果なのかなあ。
というわけで苦戦しながら読んでます。下巻はどうかな。